「リア王の悲劇」とはどのような作品なのか?  翻訳:河合祥一郎先生に教えてもらった

Photo courtesy of KAAT

「新訳 リア王の悲劇」(角川文庫)として2020年に「リア王」フォーリオ版の日本語訳本を出版した英文学者、翻訳家の河合祥一郎先生に今回の上演戯曲についてわかりやすく解説してもらった。

滞在先の英国ケンブリッジからZOOMを繋いでのインタビューでは、観劇前に知っておくと舞台をさらに楽しめる見どころ、チェックポイントが次々と飛び出してきた。

今回の「リア王の悲劇」について、これまで私たちが観てきた「リア王」とどう違うのか、教えてもらえますか。

そもそも「リア王」って二つあるの?というところから説明しましょう。

まず、1608年に刊行された初版本が、クォート(四つ折り)という今の単行本ぐらいのサイズでして、そのタイトルが「リア王の物語(The History of King Lear)」でした。一方、シェイクスピアの死後、彼の仲間たちが1623年にシェイクスピア戯曲の全集版として出版したのがフォーリオ(二つ折り)というサイズです。その全集版に入っているリア王の戯曲のタイトルが「リア王の悲劇(The Tragedy of King Lear)」となっています。

その全集版には36編の戯曲が入っていて、そのほとんどが昔出版されたクォート版の再版だったので、普通はそのクォート版、つまり初版本と変わらないのですが、特に「ハムレット」と「リア王」に関してはその中身が訂正されていることが学者たちの研究によってわかりました。

大筋は同じなのですが、「リア王」に関してはクォート版から約285行が削られ、代わりに新しい台詞が約120行加えられています(数え方によって若干の違いはある)。クォート版の冗長な長台詞が削られているとか、とても有名な台詞がフォーリオ版にしかないなどの違いが見つかります。

これまで多くの場合、両方の版を混ぜ合わせた折衷版の「リア王」が上演されてきました。なので、これまでの翻訳家の方々も大抵はその折衷版を翻訳してきたわけです。

近年、研究が進む中で、両版を合わせた版、である折衷版は実際に存在しなかったバージョンになるという批判が大きくなってきたんです。さらに、研究によって、クォート版は草稿を反映したもので、シェイクスピアが改訂した結果の上演台本を反映したのがフォーリオ版だという違いが明確になってきたので、英国本国でも二つを別の作品として出版するようになってきました。学界では、その二つの版の違いを明確に意識するようになってきているのです。

「リア王の悲劇」の上演は日本であまりないということですが、他国での上演状況はどうなのでしょうか。

全てを把握しているわけではありませんが、知る限りではフォーリオ版、つまり「リア王の悲劇」として上演しているケースはあまり無いのではないかと思います。と言うのも、一般にテキストとして読める台本が折衷版だったので、みな意識することなくそれを使用しているからです。

二つの版の間にはどんな違いがあるのでしょうか。

フォーリオ版では最後の台詞*をエドガーが言いますが、クォート版ではオールバ二公が言うことになっています。なので、実際の上演では、折衷版であっても、どちらがその最後の台詞を言うのかを選ばなければならないんです。つまり、これまではその時々の演出家が判断してどちらかに言わせていたわけです。ですが、「我ら若い者」という表現はオールバニ公よりもエドガーにふさわしいんですね。シェイクスピア自身がエドガーに言わせた方が良いと思ってフォーリオ版で変えたわけですから、その判断に従った方が良いのではないかと思います。

今回の公演でも使われた、私の訳書「新訳 リア王の悲劇」(角川文庫)の巻末には、削られた台詞、そして追加された台詞の一覧もありますので、そのあたりは本を手にして比べていただいても面白いと思います。

*「最も老いた者が最も耐えた。我ら若い者、それほど辛い人生をこれほど長くは、生きぬもの。」

「リア王」の三人娘のうち、長女ゴネリルと次女リーガンが悪い娘だという話になっているわけですが、クォート版ではその二人がおとぎ噺に出てくるような、絵に描いたような意地悪姉さんとして描かれています。その意地悪姉さんたちがシンデレラではないですが末娘をいじめるという話になっているのです。それがフォーリオ版になると、ちゃんと彼女たちに「お父さんそれはひどいです」ということを言わせているんです。なぜあのような態度をとったのかを彼女たちにきちんと台詞で説明させています。

例えばクォート版にあった、ゴネリルの夫オールバニ公が自分の妻に向かって「女の皮を被った化けものめ」と罵詈雑言をあびせる台詞の部分がフォーリオ版ではカットされていますが、逆に、王権を譲ると言っておきながらリアがお付きの騎士ともども無礼な態度を改めないのなら、国家の安泰のためにも放ってはおけないと言うくだりが加わっていて、娘たちの思惑をきちんと台詞に盛り込んでいるんです。それによって、フォーリオ版はより現代的なお話になっていると思います。近年、大塚家具の父と娘の経営権をめぐる騒動というのがありましたが、まさにその騒動を彷彿とさせる、いつの時代にもある話なのです。

これまでの上演で言うと、悪い娘たちと裏切られた父という家庭劇になりがちだったのですが、私自身としてはもっと政治絡みの話なのではないかと思っています。加えて、絶大な権力を持っていたリアがそれを失うことで一人の人間として娘に対峙していかなければならなくなる、そんな価値観が大きく変わった時に人はどうなるのかということをとても丁寧に描いているのが今回上演するフォーリオ版なんです。

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私が一番好きな場面というのがリアとコーディーリアが再会を果たす場面で、リアがコーディーリアに赦しを乞うて跪きます。コーディーリアはすぐにそれを制するのですが、リアは「(いいや)わしはとても愚かな馬鹿な老いぼれだ」と言って立ち上がらない。今なら父親が娘にそうしてもさほど驚かないのかもしれませんが、当時の父親、それもかつての王が娘にそのような態度を示すというのはよほどのことです。かつては皆がその前で平伏した王が嵐の中でそれまでの飾りを全て脱ぎ捨てたあと、ようやく人間として娘に接することができるようになるという、奥深い話だと思います。

そのあたりが河合先生がそもそもフォーリオ版に惹かれた理由なのでしょうか。

そうですね。翻訳をしていくと、面白いことにコーディーリアも必ずしも良い子というだけではないことがわかってきました。

最初からもう少し父親の気持ちを汲んで優しく接してあげることができたはずなのに、コーディーリア自身が自分の正当性を守ろうとしたがために父を怒らせてしまったわけですから。さらに言えば、終盤でリアからこのまま牢屋で一緒に生きていこうと言われたあと、なんと彼女は何も言わない、応えないのです。それは劇の始まりにコーディーリアが主張したこと、つまり父をもちろん愛しているが、夫ができたら自分はその人、夫であるフランス王を第一に生きていくと言ったことと通じます。結局のところ、この場に及んでもリアはまだきちんと彼女を理解していなかったというエンディングになっているということです。

このように随所に奥深い台詞、箇所がシェイクスピアによって書き込まれています。

日本初演となる河合版「リアの悲劇」の舞台の見どころを、あらためて教えてもらえますか。

今回特に、ゴネリルとリーガンが現代人にありがちな思考をしているというところを見ていただけると良いかなと思っています。

ゴネリルは長女なので国の安泰という責任を一番感じていて、その意味ではリアの価値観を受け継いでいます。一方リーガンはそのようなことは考えていなくて、他の人がやっていることにただ乗っかって、自分の方が勝っていることを示そうとしているだけなのかも、と演出の藤田さんと分析したりしました。

そんなリーガンをどんな役でも見事にこなす森尾舞さんが演じるので、私個人としては彼女のリーガンには期待しかないと感じています。

また、今回の藤田さんの演出ではコーディーリアと道化を原田真絢さんが一人二役で演じるという方法をとっているのですが、これはもちろんシェイクスピアの時代にそのようにして上演したという学説に基づいての演出です。こちらも見どころの一つだと思います。

塚本幸男さんが演じるオズワルドに関しても、大抵の上演ではただ主人ゴネリルに言われるがままリアに対してひどい態度をとる執事という役割なのですが、今回は価値観が変化したときに彼がどちら側につくのかといった視点で見てもらうとまた違った楽しみが見つけられると思います。我々も昭和、平成、令和と時代が移り価値観も変わっていく中で、新たな価値観に即しながら生きているのだと思いますが、そんな人間のあり方をオズワルドに見ることも出来るのではないでしょうか。

もちろん女性である土井ケイトさんがエドマンドを演じるという点も見どころになるはずです。

2024年のKAATで、“某”というテーマのもとでこの「リア王の悲劇」を上演することの意義をどう捉えていますか。

今まで皆さんが知っている「リア王」ではなく、古い価値観から新しい価値観へと変化しながら生きていく私たちとはいったい何者なのかという問いを突きつけてくる作品になるのではないでしょうか。

昨今、エコやサステナビリティが盛んに謳われていても、結局のところ全てが経済へシフトしてしまっていて、経済を中心としたところで折り合いをつけているという気がしてなりません。

嵐の中でリアは自然へと戻り、人間の根本のところを捉え直して初めて国民のこと、貧しい民のことを思うわけです。

つまりテクノロジーに守られながら快適な生活をしている今日の私たちが他者への思いやりを失くし、自然と共生することの大切さを忘れてしまったために失った何かがこの作品にはあるのだと思います。その意味で、今の私たちに強く関わるお話なのです。

河合祥一郎訳「新訳 リア王の悲劇 」は角川文庫から出版

「リア王の悲劇」演出の藤田俊太郎が語る今上演する意味とは、こちらから