藤田俊太郎が初のシェイクスピア演出「リア王の悲劇」で問う人生を通した”某”とは

(c) Nobuko Tanaka

海外翻訳戯曲の演出、そして大小様々なミュージカル演出で今や国内演劇賞の常連の顔となった藤田俊太郎。2019年には英国ロンドンで現地の役者たちとミュージカルを作り3ヶ月に及ぶ長期公演を成功させた彼が今日の日本演劇界になくてはならない演出家であることは間違いない。そんな藤田が今回、満を持して挑むのが初めてのシェイクスピア戯曲「リア王の悲劇」。

「リア王」ではなくて、「リア王の悲劇」?と思われる方は演劇通で、実はこの「リア王の悲劇」、今回が日本での初上演となる。

シェイクスピアの作品の中でも人気が高く、上演回数も上位に上る「リア王」だが、われわれが多くの場合目にしているのは、いわゆる折衷版というもの。そのあわせた版の前段階の二つのうちの一つが「リア王の悲劇The Tragedy of King Lear」だ。グローブ座の座付作家であったシェイクスピアの手による改訂版として出版されたこの戯曲、国の支配者であった王様リアの老いによる悲劇というだけではない数多くのテーマ、老いに加えて寛容、分断、支配、ルーツ、愛などを含んでいるのでは、と演出家は言う。

KAAT(神奈川芸術劇場)で、2024年のシーズンタイトルである「某(なにがし)」の第一弾として上演されるウィリアム・シェイクスピア作、河合祥一郎訳、藤田俊太郎演出による「リア王の悲劇」。戯曲の多角的な視線とはどこにあるのか、今KAATで上演する意義とは、俳優とのリハーサル作業でさらに多くの発見があったと語る藤田へ聞いた独占インタビュー。

シェイクスピアのフォーリオ版を上演することにした経緯から教えて下さい。

数年前にKAATの長塚圭史芸術監督から“某”というテーマでシーズンのプログラミングをしたいとのお話しがあり、お会いしたところ“演目も一緒に考えていきましょう”という懐深い提案をいただきました。これまでKAATさんでたくさんの、そして様々な作品を観てきて、自由な発想で創作をしている劇場だと感じていたので、まずはこの劇場で仕事ができることをとても嬉しく思いました。

常々挑戦したいと思っていたシェイクスピア戯曲、特に、初めてシェイクスピアを演出するなら「リア王」と決めていました。

「リア王」と一言で言っても草稿である「リア王の物語(クォート版)」、シェイクスピアが改訂した今回の「リア王の悲劇(フォーリオ版)」、そしてこれまで多く上演されてきた「リア王(折衷版)」があります。黒澤明監督の「乱」のような翻案も加えるとさまざまなアプローチがある中、クォート版とフォーリオ版の違いを翻訳家の河合祥一郎さんの著書で知りました。河合さんによると、フォーリオ版はシェイクスピアが上演を重ねながら手直ししてきたものだということでした。

そこで僕はシェイクスピア自身の批評、そして再構築の痕跡が残っている作品だという認識を持ち、作家自身が手直しした台本ということですから豊かな解釈ができるのではないかなという予感を抱きました。河合さんの新訳を読んだ時に特に女性の生き様、時代を超えた価値観の交錯というところに新たな光が帯びて見えてきたんです。今、この劇場で上演するのであればこの新訳「リア王の悲劇」であろうと思い、河合祥一郎さんの新訳としては日本で初めてとなる「リア王の悲劇」を上演することにしました。

「リア王の悲劇」は登場人物たちのそれぞれの生き方を通して、自分や他者は一体どんな某なのか、ということをお客様に問いかけることが出来る戯曲だと思っています。KAATの“某”というテーマシーズンにおいて、深く2024年という時代に響くテーマを見つけられると感じたのです。

その新訳戯曲を読ませていただいたのですが、まさにシェイクスピアが実際の舞台での上演に向けて直した翻訳だと感じました。

戯曲の中に、お客様の呼吸と反応、そして笑いが含まれていますよね。実際、稽古をしていても笑えるシーンが満載なんです。喜劇と悲劇、笑いと悲しみというのは表裏一体なのだということを、シェイクスピアはお客様の反応を見ながら感じ取り、それを盛り込んで改編していったのではないかと感じました。

その喜劇的な部分で、この悲劇の中で重要な役割を果たす道化をどう理解しましたか。

道化は当時のグローブ座の一番安い席にいる人々の、いわば市民代表なのだと思います。道化は舞台の前の立ち見席エリア、役者らの息遣いまで聞こえる距離からかぶりつきで観ていた観客たちに対して真実を語りかける存在なのでしょう。道化は学問とは別の知性を持っていて、だからこそ阿呆という役を演じているのです。道化自身がシェイクスピアの時代の高い位の人々へのアンチテーゼとなっているのではないでしょうか。

その意味から、「リア王の悲劇」は時代設定を3〜5世紀のブリテンとしたのだと推測します。もしこの劇が上演された年代、17世紀のイングランドにしてしまうと、そのエリザベス朝時代の社会そのものを演じることになってしまうのでアンチテーゼにはならず、皮肉としてもうまく働きません。3〜5世紀のかつての姿と設定したことによって、かえって上演された17世紀の社会への強烈な批判、皮肉となったのだと思います。

例えば「ロミオとジュリエット」はイタリア、「ハムレット」はデンマークの話として描かれていますがそれらは当時のロンドンの姿であったはずです。当時は検閲もあったので、劇の時間や場所を、少し距離を置いたところに設定することで検閲を逃れ、かつうまく社会批判を果たしたのです。シェイクスピアは真実を語るために時代や状況を変えるという、優れた戦略家だったのだと思います。

今回は「リア王の悲劇」のオリジナルをカットしたものを上演するわけですが、その作業はどのように行われたのでしょうか。

オリジナルの英語台本を河合さんが日本語訳したものをそのまま上演するとなると、かなりの上演時間になるのですが、それは今の上演のリズムとはあわない気がして、お客様に余白を残すぐらいの適切な長さで提供するためにはカットは必然だと判断しました。河合さんと劇場制作スタッフとの協議の結果、意味が重複している箇所はカットしました。

戯曲を読んでの感想ですが、リア王が中心で全てではなく、あらゆる役の人々に魅力的な台詞があてがわれているなと感じました。

はい。河合さんの妙だと思います。稽古をしながら本当にそう感じました。役名がある役だけでなく、従者や兵士たちにも何か人生を語る台詞が用意されているんです。

そうなるとますます、その行間には上演時の観客たちからの言葉やリアクションがあったのだろうと想像できます。稽古場ではそんな400年前の民衆の声、そしてその後の上演で起こった声なども聞こえてくるような気がしていて、演劇というのは脈々とつながっているのだなと実感しています。当時のお客様の声が台本に反映されていると感じるのがこの「リア王の悲劇」です。

400年前の話ですが、随所に今に通じるところ、まさに身のまわりで起こっているようなエピソードが出てきて王とその家族を身近に感じました。

古今東西に関わらず、家族、財産分与など誰にでも降りかかる軋轢、そして価値観の相違を描いた話なのではないかと思います。それはかつてあった価値観とその次の世代の価値観、そしてもう一つ先の価値観、親子三代にわたる、多くの人たちが生きている間に関わることとなる三世代についての話ということです。

それは血縁関係の三世代に限りません。世代という観点で言うと、これまでの価値観を持つリア王と武人であるグロスター伯爵(伊原剛志)、そしてケント伯爵(石母田史朗)を中心とする中間世代がいるということになります。つまりケント伯爵、ゴネリル(水夏希)、リーガン(森尾舞)、オールバニ公爵(二反田雅澄)、コーンウォール公爵(新川將人)、オズワルド(塚本幸男)、ほとんどの人物がこの中間世代に属すると思います。そしてその次の一番新しい世代にエドガー(土井ケイト)、エドマンド(章平)、そしてコーディーリア、道化(原田真絢)が入ってきます。

道化もその新しい世代に属するのですね。

そうですね、道化はリアに真実を伝えるという役割としてコーディーリアと表裏一体ということで、今回は二役を演じ分けていただきます。コーディーリアとは叶えることができなかった思いが可愛がっていた阿呆に対しての思いをさらに強め、理不尽にも荒野に放り出されたリアは道化を自分の合わせ鏡として人間を知り成長します。それまで王という視線では得られなかった世界を荒野で手に入れた瞬間道化は消え、そしてコーディーリアと再会するのです。つまり道化とコーディーリアはほぼ同じ存在となります。もともとシェイクスピアの時代のグローブ座での上演では道化とコーディーリアを同じ少年俳優が演じていたという記述もあるので、今回の一人二役はあり得ますよね。

以前のインタビューで藤田さん自身語られていましたが、本当にさまざまなアプローチが可能な戯曲ですが、今回はどこを目指すのでしょうか。

老い、人間同士の分断や融和、自分のルーツを探すことなどなどさまざまなテーマが含まれていますよね。

荒野に行って、自分の根っこ、つまり権力も支配も失くしたリアはそこで何を知るのでしょうか。そこで自分は“某”なのかと自分に向かって問うのです。

さらに言うと、それは登場人物全員に言えることでもあって、劇を通してそれぞれが何かしらの成長を遂げていくのです。稽古場で素晴らしい役者たちが劇の最初と最後では全く違った表情をみせているのを見て、そう感じました。リアを合わせ鏡として、他のキャラクターはそれぞれに多様なテーマを背負うのですが、リアだけが成長を遂げ変化するのではなくて、各々がそれぞれの生き様、または死に様をみせるのです。

中間世代でリアを支持し続けたオールバニ公爵、ケント伯爵、そして支配者ではなく全く新しい価値観を持ったエドガーの三人だけが生き残ります。そのエドガーが最後に語る言葉、そして彼女が最後を締めくくる意味というものが今回の上演では際立つのではと思っています。国を守る武人の一家の一員である彼女(今回の舞台では女優の土井ケイトが演じる)は王の地位を継ぐわけではなく、リアを通し武人としてどう生きたのかを語るのです。そして次には全く違う時代が始まるのだと思います。リアの支配、政権が終わり、新たな時代になった時には一旦それまでの時代は完全に無くなるのですが、そこにはリアの生命力、そして最期が確かに引き継がれていきます。

リアの死に様を描き、それによって全く新しい価値観を持った時代が始まるという予感を感じさせて終わるというのが2024年の「リア王の悲劇」だということで、最終シーンには注目していただきたいと思います。そこが未来へのメッセージであり、そこで確かに現代と繋がるのだと考えています。

2024年にKAATで上演する意味、その現代性についてもう少しお話いただけますか。

まず、あらゆる世代の方に観ていただきたいと思っています。

時代というのは確実に進んでいきます。その時の流れを成長と捉えるか、残酷な時間の経過と捉えるかは人それぞれですが、少なくとも時間は進み世代は変わり、新しい価値観が誕生していく。そして次に渡していくということが人間としての営みだと思い、リア王ほど価値観の交流とか、かつての価値観と現在を問う作品はないのではないかと考えました。

KAATさんは様々なタイプの作品をプログラミングし、遠く離れた価値観をどう融合していくかということを問いかけ続け上演してきた劇場だと思っているからこそ、このKAATで「リア王の悲劇」を自由に制作したいと思いました。そこで、今回はホール(大劇場)内に特設会場、具体的に言うと舞台上に客席を特別に設置して、お客さまには地続きで間近に役者の演技、劇の世界を体感していただくつもりです。

(c) Nobuko Tanaka

今回発見した、もしくは戯曲から得た登場人物像について教えてもらえますか。

ゴネリル、リーガンは一見すると理不尽に親を突き放した娘たちと映るのですが、彼女たちは政治家として国を担ったわけですから、彼女たちにしてみれば上の世代にずっと居座られたら困るわけです。なので、政治家として国の采配を執っていかなければならない彼女たちには彼女たちなりの感情移入できる強い理由があるのです。そして彼女たちだけでなく、登場人物それぞれに主張する理由があって、それが悲劇を招き、また喜劇的にもなり得るのだと思います。

ゴネリルは周りが見えているところ、そして見えていないところも含めてすごく政治家らしいと思いました。権力を手に入れようとする人たちにはその両面があるのだと思います。エドマンドに関しても、彼が独裁的な権力を手に入れようとした瞬間に周りが見えなくなって、その心の隙をついたエドガーに刺されてしまうわけです。

見る、見ないと言う観点からすると、その最たるものがグロスター伯爵のケースで、彼は目をえぐられてしまいます。

ある意味、この話は眼差しの物語であると言えると思います。見る、見ない、もしくは見える、見えないということを通して、何を見て、そして見ていないのかということを個人で判断しながら生きていく物語です。

あと、今回エドガーが女性であることで、全部ではないですが、男らしさ、女らしさと言う価値観から解き放たれる瞬間が生まれたと感じています。男女それぞれに身体的な特徴、例えば力の強さなどは違いますが、男らしさ、女らしさに関しては人間が決めたことにすぎなくて、そこから解き放たれる瞬間がいくらでもあるということをエドガーが教えてくれます。つまりジェンダーレスな視点からこの作品を読むことができるということ、それをこのKAATで創作できたなと思っています。劇中、民衆代表と位置付けている8人のコロスの存在にもこだわりました。この劇場こそ演劇、そしてアートの新しい価値観の発信場所であり続けてほしいと思っているからです。お客様はシェイクスピア劇と気負わずに、いろいろな価値観を得て帰っていただきたいと思っています。

時代は移っているという事ですが、ご自身でそのように感じることはありますか。

僕は若い時に、ニナガワ・スタジオの役者オーディションでエドマンドの台詞を喋ったのですが、その時はエドマンドというキャラクターに自己投影して、自分の顕示欲を重ねて戯曲を読みました。そして今回自分はケント伯爵という人物に非常に惹かれています。僕も年齢を重ね、自分よりも若いとても優秀な演劇人がたくさんいること、彼らがこれまでとは全く違う価値観で芝居を作っていることを本当に素晴らしいなと思いながら見ています。さらに若い二十代前半の役者たちと仕事をすると、彼ら彼女たちはびっくりするぐらい感覚が違うんです。それはとても良いことだと断言できます。自由な発想でものを作りますし、ちゃんと勉強もしている。そういった世代が出てきたとなった時にはもしかしたら自分はケント世代、中間世代になりつつあるのかなと感じますね。

最後に、今回リア王を演じる木場勝己さんについてお話しいただけますか。

自分が演劇の現場にいるときに、こういったものを作りたいとか、こういう人と仕事をしたいとか、毎回目標を持つわけです。で、今回、シェイクスピアを、「リア王の悲劇」を演出したいとなった時に、まずは木場さんでリア王をというのが大前提としてありました。もちろん、木場さんが役者として優れているということは語り尽くされているし、皆が知るところだと思います。それとは別のところで、木場さんとは20年来のお付き合いなのですが、蜷川幸雄さんの現場で助手としてついていた時、演出助手1年目の僕に話しかけてきたのが木場さんだったんです。誰に対しても分け隔てなく話しかけてくれて、右も左もわからない新人の演出助手の僕に接してくれました。人間としてとても尊敬している方で、僕はずっといつの日か木場さんでリア王を演出したいと思い続けてきたのです。つまるところ、それが全てと言えると思います。

さらに言えば、アングラから大劇場まで様々な状況、ところで演じてきた木場さんだからこそ、今回のKAATの技術を集約した特別な特設会場でも見事に演じてくれるだろうと確信しております。

(c) Nobuko Tanaka

「リア王の悲劇」

日程:会場 2024年9月16日〜10月3日

KAAT神奈川芸術劇場ホール内特設会場(みなとみらい線「日本大通り」または「元町・中華街」駅より徒歩5分

詳細:https://www.kaat.jp/d/king_lear

「リア王の悲劇」の翻訳の河合祥一郎さんへのインタビューもどうぞ