怪物のようなレイフ・ファインズの君主マクベスが戦場に現れる

(c) Matt Riches / unsplash

The Guardian / Arifa Akbar 2023.11.30の劇評より

何と言っても、「マクベス」を戦争がもたらす堕落についての歴史劇に再構築したような芝居と言うことができるだろう。殺人への強い思い、権力、そしてうしろめたさといったものの全てがサイモン・ゴドウィン演出の知的な作品には詰め込まれているが、なによりもそこには激しい対立が前面に出ている。シェイクスピアの11世紀の戦場が今日の戦場になり、レイフ・ファインズのマクベスが軍服姿で登場する。

今作はこのために特別に作られた空間で上演され、リバプールの格納庫のような会場 The Depotでツアーの幕を切ったばかり。劇場に入って目にする最初の舞台設定は部屋いっぱいに広がった焦げた車の残骸、石油缶、壊れた電信装置のワイヤー、瓦礫、そして炎と煙。その建物が倒壊して平地になり、焼き尽くされてこの世の終わりのようになった土地にガザの破壊の状態を重ねて見てとることは難しいことではないだろう。

爆撃で壊滅状態となったエリアの背後では戦闘機の飛ぶ音がやまず、爆弾が投下された際の閃光も見える。そのサイトスペシフィックな特色から想像するほどには作品自体に新しさは見られないものの、エミリー・バーンズの翻案は賢く、簡潔、そしてとても現代的で、フランキー・ブラッドショウの周りをすっかり取り囲んだ舞台美術はこの舞台の目玉と言ってよいだろう。

ファインズのマクベスは彼が演じたコリオレイナスのような —もしもう少し愛嬌があり、不器用な感じだとしたらまさにそうなるのでは?— 軍人として登場、安定した演技を見せている。彼は徐々に躁病的で怪物のような人物へと変わっていくのだが、その気まぐれで低俗な、悔い改める気もないふてぶてしい王となった姿には説得力がある。有名な“明日、また明日、そしてまた明日”の台詞はスポットライトの中で情熱的に発せられる独り言だが、その情熱はその後さらに広がって続くわけではない。インディラ・ヴァルマのマクベス夫人は夫のための野望に奮起し、つねに人間味のある人物として夫婦間では支配権を持つ一方で、柔和で傷つきやすい一面もみせる。

雰囲気としては切迫感、そして熱狂的のようなものが十分であるとは言い難いと感じた。そしてマクベス劇の超自然的な恐怖は戦争の恐怖と腐敗に取って代わられていた。いくつかの場面、たとえばマクダフ(ベン・ターナー)が彼の家族に起きた殺戮について聞かされたシーンなどではそれがうまく機能していたと思う。そのシーンがまた、罪のない女性や子供たちが戦争の二次的な犠牲となっている今日の状況を思い起こさせていた。

魔女たちは冒頭、地べたを履い、惨めに唸り声をあげる生き物として人々にお告げを語る。しかしながら彼女らはいまどきのZ世代の若者たちのように、ダンガリーシャツにドクター・マーチンといういでたちで徐々に平凡になっていく。それはこの世では忌まわしいのは人間で、彼女たちのような“変な姉妹”ではないということを示唆しているのだろう。逆転の発想は面白いが不吉な様相を削いでいるし、恐怖を感じる初めての瞬間がマクベスがバンクォー(ステファン・ロドリ)の亡霊を見たとき、というのもいかがなものか。

広大な空間の中で舞台エリアは小さく、観客の視線を集めるのには効果的で、ややもすれば閉所恐怖症のような気持ちにさせられる。背景はスチール製の中二階がある家のフロント部分となっていて、これがあるシンボルの伏線となってうまく働くこととなる。と言うのも、マクベス夫人が到着した時にテーブルに置かれていたきれいな水が入ったボウルは彼女の手を洗うという罪の意識を前もって予感させ、そして王国が血を流す時にその壁から血が滲み出てくるからだ。

おどろおどろしい電子ドラムの音楽はとても効果的で劇の流れをうまく掴んでいた。

The Depot (リバプール)での公演は12月20日まで。その後エジンバラ(1月12〜27日)、ロンドン(2月10日〜3月23日)、ワシントンDC(USA)(4月9日〜5月5日)と続く。