勅使川原三郎がダンスでシェイクスピアの世界へと誘う

「今年4月にここアパラタスで上演した「ロミオとジュリエット」をルーマニアの「クライオーヴァ国際シェイクスピア・フェスティバル」で上演して帰ってきたばかりです。フェスティバルは演劇の演目が主でダンスは少ないのですが、おかげさまでとても好評をいただきました。」

Photo Albert Dobrin

「ロミオとジュリエット」クライオーヴァ国際シェイクスピア・フェスティバル 2026

世界的ダンサー、振付家、演出家の勅使川原三郎のダンスカンパニー「KARAS」の本拠地である「カラス・アパラタス」。荻窪にあるアパラタスでは年間を通じて勅使川原三郎とアーティステイック・コラボレーターの佐東利穂子による新作が発表され、時にアップデートされた再演があり、常に作品を育てていく重要な場となっている。そのアパラタスで海外公演から戻ったばかりの勅使川原に今年1年を通したシリーズ企画である「アップデイトダンス—シェイクスピア全集—」について、その意図、シェイクスピア作品創作の鍵について話を聞いた。

彼独自の方法論としてシェイクスピア戯曲を読み解くのではなく、シェイクスピアが放った問いかけに自分はどう答えるのか、呼応するのかを作品にこめると語る勅使川原。世界で長年に渡り影響力を持ち続けているアーティストは自らの考えを表明することこそが広がりを持って繋がっていく極意だと語ってくれた。

Q:演劇の代名詞であるシェイクスピアをダンス作品にしようと思ったのはなぜですか。

これまで「ハムレット」と「オフィーリア」「ロミオとジュリエット」を上演してきました。そこで見えてきたことですが、私の場合、シェイクスピアの戯曲をどう演出するかではなく、シェイクスピアの世界から現代に届くものがあるとすればそれは何なのかということから考えていきます。私自身がどう受け取るのかを第一に据えてダンス創作をします。逆にシェイクスピアは戯曲で何を語ろうとしていたのか、社会的に歴史的に考察して、演劇的思索を含めて演出をするということは私の仕事ではないと思っています。シェイクスピアだけでなく、音楽に対する接し方も同じなのですが、自分にとって何がそうさせるのかを追求していくのです。

Photo by Akihito Abe
Photo by Akihito Abe

「ロミオとジュリエット」KARAS アパラタス 2026

ヨーロッパでは音楽、バレエ、さらに日本では世阿弥のように人間が表現の方法として身体表現を劇的に行おうとした中世という時期にシェイクスピアが書いたことへ、自分の方から向かっていくことが大事なのです。

人間が生きていく過程で欠かせない生死の問題とか、愛情、裏切りについて、それらは二択で選べるものではなくもっと細かい複雑なものがあるからこそシェイクスピアの戯曲は現代にも響くのだと思います。

シェイクスピアの翻訳に関して言うと、時代時代でその時代を反映した訳がなされているので、自分はそこからものを見たくないのです。“砂漠に落ちている米粒を拾う”ように自分の小さな視点が過去の人であるシェイクスピアへ光を当て返せるかを想像しながら創作をしていきます。自分の方が何を返せるのかを主に据えて作品を作ります。

戯曲を解釈してそれを演じようとすることは私にとってはナンセンスなことで、あえて言えば、自分の勘違いを全てとして、そこから何を投げ返せるかを今回の企画でやりたいと思ったのです。

言葉、ことば、言葉の演劇であるシェイクスピアをダンスで表現するというのは無謀と言えば無謀なことなのですが、鯨を見て人間が鯨のことをうんぬん言っても鯨にとっては知ったことではないのと同じことで、シェイクスピアにとってはどう解釈するのかは知ったことではないのなら、戯曲を分析するよりもこちらがどう投げ返せるのかを示すことが重要なのではないかと思います。

Q:今回単独作品ではなく、1年かけてシリーズにしようと思ったのはなぜですか。

そのほうが自分にとってシェイクスピアで何が出来るのかを見出せると思ったからです。解釈を求めるのではないとしたらその代わりに何を、と言った時に、例えば佐東利穂子がジュリエットを演じるわけではなく佐東の中にジュリエットがいるかどうかを重要視したいと思ったのです。

先日のルーマニアのシェイクスピアフェスティバルで「ロミオとジュリエット」を上演した際のアフタートークに英国人の男女のシェイクスピア研究者が登壇しました。司会者も英国人だったのですが、彼らは我々の「ロミオとジュリエット」をとても高く評価してくれました。いろいろな国から集まった観客もスタンディングオベーションで喜んでくれました。つまり、戯曲の解釈ではなく、こちらが何を持っているか、何を投げ返しているのかを評価してくれたのだと感じました。我々はシェイクスピアが書いていないこと、その後のロミオとジュリエットを見せたわけで、作品には(彼らのその後は)こうであろうということを想像させる力があったのだと思います。そして、そこに自分がシェイクスピアをやる意味があるのだと思います。

Photo Albert Dobrin
Photo Albert Dobrin

「ロミオとジュリエット」クライオーヴァ国際シェイクスピア・フェスティバル 2026

シェイクスピアの戯曲は全てがシェイクスピアの企みですよね。「ロミオとジュリエット」で言うと作家が企んで、若い二人を罠にかけ無理心中させた物語と読んだわけです。私たちの踊りでは死後の二人が自分達の亡骸を見て、“勘違いして、まんまとやられちゃったね、でも私たちはこれからまだ生きることが出来るかもしれないよ”と言っているというように描いたのです。そこでリヒャルト・シュトラウスの「Morgen(明日)」という音楽、“自分達は明日、また新しい光、朝日を浴びて歩んでいくのです”という内容の曲を使いました。

表現というのは、自分で鏡を持っていれば例えば暗闇でも僅かな光が反射させるように、そしてよく耳を澄ましていると心臓の音が聞こえるように、何かを反射させていることなのだと思います。そこで同様に、生きているということは何かを反射させている状態なのだろうと考えます。それは受けてこそ反射出来るわけですから、誰かいるから恋をするし、誰かが声を出したからそれに対して振り返ってそこから何かが始まるとか、全てがそのようなやりとりを続けているのが生きていることだと考えます。つまり全てが誤解かもしれないが全ては誤解の中で生まれていて、それを続けているのがいわば人間の営みなのだと思うのです。

今日だけでなく明日も勘違いから何かが始まると思うと次を見たくなりますよね。その誤解からその次にとなった時に、一つの作品で完結できないものであろうと思いこの連作シリーズを企画しました。

*4月に上演した「ロミオとジュリエット」の他に、「ハムレット」「テンペスト」「マクベス」「オフィーリア」、そしてソネットを題材にした作品を上演予定。

Q:12年前に一度創作している「ハムレット」を今回新に作ろうと思ったのはなぜですか。また、今回はどんな作品になるのですか。

今回は「なるようにしかならない」ということ、運命に身を委ねる決意について描きました。

福田恆存の翻訳にかなり影響されているのですが、彼は「To be, or not to be, that is the question 」を“在るべきか、在らぬべきか”、“するしない”とかではなく「生か、死か、それが疑問だ」と“生か死か”で良いのだと書いています。なるほど、つまり“生か死か”と言うよりは“人間がただ生きる死ぬではない”ということをここで言っているのだと思いました。“何何か、何何か”と言った時にそれは裏表ではないのではないか、つまり転がるのではないか、と。「That is the question」はよく「それが問題だ」と訳されますが、そこは問題ではなく疑問、問いなのではないかと思ったのです。つまり生か死かが問題なのではなくて、問うことが問題なのだと取りました。そこで、そこから何が返せるか、となった時に思ったことは「なるようにしかならない」ということでした。鎌倉時代の僧、明恵上人の言葉に「なるべきようは(あるべきようは)」というのがあって、人はあるようにしかない(「人はその時、その場でどうあるべきかを常に問いかけ、それに従って生きるべきだ」)と言っています。ハムレットはずっと問いを問いかけ続けていて、それらが解決しないまま、多くの悔いを抱えたまま彼は息を引きとったのではないかと想像しました。

「ハムレット」は生きるか死ぬかの問題ではなく、運命に委ねるということを言っているのだと思います。答えを云々するのではなく、問い続ける意思が人間の形になるのです。

また、「ハムレット」は権力闘争の話のようにも読めますが、シェイクスピアはそれを超えたところを見据えていたのではないかと考えます。それは我々日本人が持っている死生観とかけ離れてはいないのではと思えてきます。西洋文化のキリスト教を下地にどう演出するかではなく、自分自身がそれに対して何を見るかということであり、そうすると戯曲と私がパチっと出会うところがある気がしたのです。

2015年に「ハムレット」を創作した時には今ほど明確にはなっていなかったと思います。その後2020年に「オフィーリア」を作った際、今の考えに近づいたのだと思います。

©Salvatore Liuzzi
©Salvatore Liuzzi

「オフィーリア」in Italy 2024

“Ophelia” photo by Florin Ghioca
Courtesy of the International Shakespeare Festival Craiova
http://www.ghioca.eu/ophelia/

「オフィーリア」クライオーヴァ国際シェイクスピア・フェスティバル 2022
“Ophelia” photo by Florin Ghioca
Courtesy of the International Shakespeare Festival Craiova
http://www.ghioca.eu/ophelia/

「オフィーリア」クライオーヴァ国際シェイクスピア・フェスティバル 2022

Q:勅使川原さんほど頻繁に海外で公演をしている日本人アーティストはいないと思うのですが、昨今の海外のパフォーミングアーツ状況についてはどう思われますか。

私自身に関しては何も変わっていないのですが、状況は変わってきているとは思います。そこで大事なことはいかに自分は変わらずに変わるかです。言い換えれば“なるようになる”ですかね。そこに強い意志がなければなるようにはなりません。そうでないと振り回されて疲れてしまったり、使われるだけになってしまったりします。私は自分の考えを主張します。日本文化をどうこうと言うより、私自身、私がどのような意志で表現しているのかを伝えれば相手はきちんと受け取ってくれます。さらにそれに対して返してくれるので、それをまた私が打ち返してと繰り返し、それがやりとりになって創造が続いていきます。違うということは悪いことではなく、基本的な力になると思っています。

数日中にまたヨーロッパ、オランダ・アムステルダムへ飛ぶのですが、そこで40人のアカペラの合唱団とコラボレーションをして中世ルネッサンスのモテット(宗教的な合唱曲)を踊ります*。完全に彼らヨーロピアンの歌の内容で音楽なのですが、自分は宗教というよりもそこにいる一人一人が持っているものと一緒に、生と死についての根源的な思いを含めてダンスにしています。

とても壮大な作品でアパラタスで上演するシェイクスピアシリーズとはまた違ったものなのですが、そのスケールの大きな作品でも魂まで行きつけば単に違うではなくて、互いにそれが溶け合うものとなるのです。そのようなやりとりは今この時代にとても大事だと思います。もちろん“違う”は在るのですが、“違う”を超えていくことが重要です。

*2025年にはベルギー・ブリュッセルで、2026年1月にベルギー・ブルージュ、2月にフランス・パリで上演され、今回アムステルダムで6月18、19日に上演された「Spem in alium 」

Q:最後に今日シェイクスピアを上演する意味について教えてください。

古典と言われていますが、決して古いものではないのです。我々の命は綿綿と途絶えず繋がっています。ということは、古典は今のもので、古典を大事にしたら今を大事に出来るということなのです。

(c) NOBUKO TANAKA

勅使川原三郎

アップデイトダンス—シェイクスピア全集— 「ハムレット」

出演: 勅使川原三郎

劇 場: カラス アパラタス/ B2 ホール 〒167-0051 東京都杉並区荻窪 5-11-15 F1/B1/B2

日時: 2026 年 7 月 4 日(土) – 13日(月) *全 8 回公演

料金: 一般 予約 5,000 円 [当日 5,500 円] 学生 3,000 円(学生は予約当日共に)

予約:https://www.st-karas.com/reservation120/

HP:  https://www.st-karas.com