新国立劇場舞踊芸術監督・吉田都が架ける日英の橋の第一歩「ジゼル」公演

「ローザンヌで賞をいただき英国ロイヤルバレエスクールに留学した時は1年で日本に帰ってくるつもりでいました。あれほど長く英国に居ることになるとは思いませんでした」と話す新国立劇場舞踊芸術監督の吉田都。

©Jörgen Axelvall

舞踊芸術監督・吉田都

ホームシックに悩みながらも、もう少しだけ続けてみようと思いながら踊り続けた彼女は、気がつけば英国の2つのバレエ団においてプリンシパルを務め、22年にわたり活躍することとなった。吉田は当時を「英国では給料をもらいながらバレエができることに本当に驚きました」と振り返る。

英国での体験を携え、2020年に新国立劇場舞踊芸術監督に就任した吉田は自身が英国で見たこと、学んだことを次世代にしっかりと手渡し、日本のバレエ界を前進させたいと話す。

バレエの殿堂、英国・ロンドン・ロイヤルオペラハウスで、日本のバレエ団が公演を行うというニュースに驚きと喜びの声があがった2024年3月の新国立劇場2024/2025シーズン舞踊ラインアップ発表会から1年が過ぎ、ロンドン公演が現実のものとして迫る中、舞踊芸術監督の吉田に今の新国立劇場バレエ団(NBJ)が目指すところ、英国公演にかける思いを聞いた。

(c) Okuda Yoshitomo

吉田都 『ジゼル』リハーサルライブ配信にて

英国公演は2020年9月に新国立劇場舞踊芸術監督になられた当初から計画に組み込まれていたのでしょうか。

いつかロイヤルオペラハウスで海外公演が出来たら、とは思っていましたが、まさかこんなに早く実現するとは、私自身驚いています。

今回の公演は、現在起きている戦争の影響で、ロイヤルオペラハウスで例年夏の時期に行っていたロシアのバレエ団の公演が行われないことになり、代わりに他の海外のバレエ団を、ということでお話をいただきました。

ただ、実現に至った大きな要因は木下グループの木下直哉代表の強い後押しです。木下代表はかねてより英国ロイヤルバレエ学校へ通う日本人の留学生への支援をされており、そのご縁でお会いした際、ロンドンへ行けたらといった夢を話していました。映画のプロデュースをされたりフィギュアスケートの育成施設を作ったりされていますし、芸術にも深い理解をお持ちの木下代表が新国立劇場バレエ団の舞台をご覧になって、世界でも通用すると感じてくださり、 “行きましょう、全面的にサポートします”と背中を押してくださったのです。本当にありがたいことです。

加えて、英国で私を応援してくださっていた方々のバックアップや、観に行くよと言ってくださる声も、実現の後押しになりました。英国で頑張ってきたことがこうして今に繋がっているのだと実感しています。

(c) Shikama Takashi

『ジゼル』初演時にアラスター・マリオット、ジョナサン・ハウエルズと

『ジゼル』初演時に衣裳デザイナーのディック・バードと

英国公演をする意義をどう考えていますか。

英国での公演は、新国立劇場バレエ団を海外の多くの方々に知っていただける貴重な機会だと考えています。東京で日々努力しているとはいえ、ヨーロッパの人々にとって日本はまだ極東の遠い国という印象が強く、なかなか存在を知っていただけません。ですから自ら海外に出て、実際に観てもらう機会をつくることがとても重要です。それがまた新たなチャンスに繋がるかもしれません。30年弱のまだ若いバレエ団ではありますが、確実にレベルも上がってきています。この英国公演はさらなる挑戦への第一歩だと思っています。

私が最初に所属したサドラーズウェルズ・ロイヤルバレエ(現バーミンガム・ロイヤルバレエ)はツアーカンパニーでしたので、英国国内はもちろん、世界中の様々な劇場で踊る経験をして、とても勉強になりました。今回のロンドンツアーは現地入りから本番までの時間が限られる中、新国立劇場のように十分な舞台稽古の時間はとれませんが、だからこそダンサーたちにとって大きな成長の機会になるはずです。みんなにはこの公演を通じて、タフになってもらいたいと思っています。

もちろん日本でできる準備はすべて行いますが、それでも予期せぬことは起こると思います。そのときはその場で柔軟に対応していくしかありません。ただ、そうした不測の事態への対応力についてはすでにパンデミックの経験から多くを学びました。その意味で、劇場としても、ダンサーもスタッフもかなり鍛えられたと感じています。あの困難な時期を乗り越えられた経験があるからこそ、今回も大丈夫だと私は思っています。

2022年に吉田都演出によって生まれた新しい「ジゼル」はどこに留意して演出したのでしょうか。

私自身が英国で学んできたブリティッシュバレエ、つまり演劇的なストーリーを伝えるというところに重点を置きながら、古典バレエとしての伝統も大切にしたいと考えました。その両者をできる限り良いバランスでミックスさせることを目指しました。結果的に、そのバランスが取れた作品になったと自負しています。

英国やヨーロッパの観客、批評家たちに注目してもらいたいのはどんなところですか。

ぜひ、コール・ド・バレエにご注目いただきたいです。新国立劇場バレエ団の特徴のひとつは団員同士の関係性の良さにあります。皆、本当に仲が良く、それもあって、舞台上のチームワークに表れています。個人の自主性が尊重される英国から戻って来た私にとって、このようなバレエ団は世界でも珍しいと感じます。

新国立劇場バレエ団では時間をかけてリハーサルを重ね、一つの作品を作り上げていきます。そのため、コール・ド・バレエがそろっていることへの意識も高く、舞台上にしっかり反映されています。

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『ジゼル』第2幕

ただし、これは今後のカンパニーの成長のためには改めなければならないものでもあります。英国ロイヤルバレエは、豊富なレパートリーを日替わりで上演するのが一般的です。例えば「白鳥の湖」の翌日に「トリプルビル」を行うという運営がなされています。今のカンパニーではそのような体制の運営はまだ難しい状況です。

将来的には、より短期間のリハーサルでも高いレベルを保つことを実現できるようにし、演目も公演数も増やしていきたいと考えています。

今回英国公演の演目として「ジゼル」を選んだ理由は?

新国立劇場で上演している演目は海外からのプロダクションが多い中、新国立劇場のオリジナルとして制作した最新の作品である「ジゼル」を選ぶことにしました。新国立劇場バレエ団の魅力をよく表しているプロダクションです。また、先ほどお話ししたように、この「ジゼル」には私が英国で学んだことが込められています。ロンドンの皆様にぜひ楽しんでいただきたいですし、この舞台を通して英国で育てていただいた感謝もお伝えしたいという気持ちもあります。

当初は、かつて新国立劇場舞踊芸術監督を務められた牧阿佐美先生振付の「ライモンダ」を「ジゼル」と合わせて候補に考えていて、ロイヤルバレエの芸術監督であり、私のロイヤルバレエスクール時代の同期でもあるケヴィン・オヘアにも相談しました。検討を進めていましたが、「ライモンダ」は主人公の敵役がサラセン(アラブ)の騎士であるというところから人種差別問題に関わる演目ということで、今ヨーロッパではなかなか上演されていないという現状があります。昨今、世界のバレエ界では、例えば「くるみ割り人形」において、同様の理由から新振付や演出で民族舞踊を他の形に変えたりするなど、変化が起きているのです。

新国立劇場バレエ団のダンサーたちは日本人らしい控え目さや繊細さをもって踊っているので、英国のお客様にはそれに着目していただけたらと思っています。それが英国のお客様の目にどのように映るのかは正直わかりません。もしかすると舞台芸術として控えめすぎて伝わらないかもしれませんし、逆に英国で見るダンサーたちの表現とは違う独自の表現を見ることが出来たと好意的に思ってもらえるかもしれません。 いずれにしても、新しい視点での舞台として楽しんでいただけたら嬉しいです。

(c) Hasegawa Kiyonori

『ジゼル』第1幕

Z世代の若い新国立劇場バレエ団のダンサーたちについてはどう感じますか。

若いダンサーに限らず、オリンピックでも多くの若い選手が私の世代では想像出来なかったような活躍を見せています。我々 “根性バレエ”の時代とは異なり、スポーツサイエンスを取り入れ、理にかなった効果的な身体の使い方の情報などが入手し易いこともあり、世界に引けをとらない若手ダンサーが増えてきているように思います。また、以前に比べて体型的に恵まれたダンサーも多くなってきましたし。ロイヤルバレエに日本人ダンサーが多く在籍していることを見ても、“日本人だから難しい”という意識は、彼らの中ではほとんどなくなってきているように思います。

人生の多くの時間を英国で過ごされたわけですが、英国から学んだこととは。

仕事を始めたのが英国でしたので、バレエだけではなく社会人としての全てを英国から学びました。私にとっては英国流が普通でしたので、日本に戻ってきて、日本のやり方を一から学ぶことも多々ありました。

英国ではバレエダンサーという職業に対して大きなリスペクトがありましたが、日本に戻ってきたら“バレーボールのバレー?”と聞かれたりして(笑)。今でこそローザンヌでの日本人の活躍などがニュースになり、社会的な認知度も少しずつ上がってきましたが、ダンサーたちが置かれている環境はいまだに不安定であるのが現実です。

そのような状況をすこしでも良くしていきたいという思いから、自らが新国立劇場バレエ団の中に入り改革を進めていくことを決意しました。芸術監督になったのもまさにそのためです。ただ、マネジメント側の立場にありながらも、どうしてもダンサーの視点から物事を考えてしまう傾向があるのは否めません。ダンサーの待遇改善、特に給与面の向上や、ダンサーたちが怪我なく不安のない状態で舞台に立てるような環境づくりをするのに日々奮闘しています。

その改革は現在どの段階まできているのでしょうか。

正直、まだ始まったばかりです。改革にはそれなりの時間が必要だと思います。

たとえばロイヤルバレエ、その前に在籍していたサドラーズウェルズ・ロイヤルバレエのシステムも一朝一夕で整ったものではありません。私が在籍していた頃は、今ほど整った環境はありませんでしたし、彼らは時間をかけて世界トップのオペラハウスの環境を作り上げてきたのです。ですから、新国立劇場バレエ団も、すぐにロイヤルバレエと同等のシステムにしなければ、という焦りはありません。私が生きている間に形になればいいな、くらいの気持ちでいます(笑)その完成は後に続く人たちに託したいと思います。ただし、劇場の環境以上に、これまで私自身が学んできた踊りや表現方法に関する知識や経験を次世代に少しでも多く伝えていくことが今の私に与えられた使命と感じています。

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『ジゼル』初演時に舞台稽古にて

「ジゼル」が最初の一歩になりますが、その後の国際展開に関してはどう考えていますか。

ありがたいことに色々とオファーはいただくのですが、その全てに応えていくにはキャパシティオーバーな状況です。例えば同じことをオペラハウスでは30人のスタッフがこなしているところを、ここでは5人で対応しています。まだまだ劇場としての体力が十分ではないということだと思います。そこの問題をクリアできたら、より積極的に海外へ出ていけると信じています。

とは言え、この5年間で色々なことを変えていただけました。スタッフの皆さんは大変だったと思いますが、とてもありがたいと感じています。

新国立劇場バレエ団のこれからについて考えていることは。

日本にダンサーが就職できる劇場が一つでもあるということ。その存在は大きいと思います。多くの優秀なダンサーがどんどん海外に流出してしまっている中、日本で踊りたいという思いを持つダンサーもいますから。新国立劇場バレエ団はそういった人たちの選択肢の一つとしてありたい。そして、将来的には海外の名だたるバレエ団と並んで、新国立劇場バレエ団が彼らの目指すバレエ団の一つになることを目指しています。

最後に7月のロンドン公演へ向けての意気込みをお願いします。

新国立劇場バレエ団を英国のお客様に知っていただくこと、そしてその舞台を楽しんでいただけることを目標に現在、準備を進めています。これからの新国立劇場の成長にもつながっていくこの大切な機会はプレッシャーでもあり、胸が躍ることでもあります。日本で応援してくださるお客様にも、この経験で得たものをお返しできるよう努めてまいります。これからもどうぞ新国立劇場バレエ団への引き続きの応援をどうぞよろしくお願いいたします。

『ジゼル』英国ロンドン公演詳細

2025年7月24日〜27日(全5回公演)

英国ロイヤルオペラハウス/ ロンドン

詳細:https://www.nntt.jac.go.jp/ballet/giselle_london25/ 

https://www.rbo.org.uk/tickets-and-events/national-ballet-of-japan-giselle-details