フロリアン・ゼレール、岡本圭人
世界の演劇界で最も注目されている劇作家で作家の一人、フランス、パリ出身のフロリアン・ゼレール。現在44歳のゼレールの名を一気に押し上げたのが2010年に発表された「La Mère 母」を皮切りに2012年「Le Père 父」、2019年「Le Fils 息子」と続いた近しい家族の分かり合えない思いを描いたシリーズ。英国の有力新聞The Timesは「Le Père 父」を“今世紀最高の戯曲の一つ”と評している。その後、名優アンソニー・ホプキンスを配し自らがメガホンを取った映画版「ファーザー」では第93回アカデミー賞の脚色賞を受賞し、さらに活躍の場を広げつつある。
今回、フランス人の演出家ラディスラス・ショラー演出で日本人俳優による日本版の「Le Fils 息子」と「La Mère 母」を観るために初めて日本を訪れたゼレール。ちょうど桜の時期と重なり、空き時間にはお寺や木々を見ながら東京のあちらこちらを散歩して過ごしていたという彼に日本の印象を尋ねると、
「とても強い印象を受けました。この国にはある種のハーモニーがあるな、と感じました」との答えが。
「正直なところ、日本語がわからないので日本で舞台を観るのには不安があったのですが、その不安は全くの杞憂でした。「La Mère 母」を観たのですが主演の若村麻由美さんが素晴La Mère 母らしかった。さまざまな国で「La Mère 母」を観てきましたが彼女のアンヌはその中でもトップクラスでしょう。
「La Mère 母」舞台より 若村麻由美
「演出のショラー氏はフランスの著名な演出家で私の戯曲をこれまでに何度か演出しています。彼がまず日本で私の戯曲「Le Père 父」を日本人俳優で演出しました。*その際、彼が日本にすっかり惚れ込み、日本でまた仕事をすることを熱望していたんです。それで今回の連続上演につながったわけですが、私も俳優だけでなく、日本のスタッフ、作品に関わる人たちが優秀で、彼らの仕事へのコミットメント、リスペクトが素晴らしいと思いました」と語ってくれた。
*2019年東京芸術劇場で上演され、認知症の父アンドレを橋爪功、その娘アンヌを若村麻由美が演じ、橋爪功が読売演劇大賞を受賞した上、 優秀作品賞、最優秀男優賞、優秀女優賞に輝いた。
今回、幕が開いて数日が経った東京芸術劇場の楽屋で「Le Fils 息子」と「La Mère 母」の両方の舞台で多感な十代の少年ニコラを演じている岡本圭人と劇作家ゼレールへのインタビューを敢行。すると多くの点で二人に共通する思い、そしてお互いを認め合う関係性が見えてきた。
「La Mère 母」舞台より 若村麻由美、岡本圭人
「息子」のカーテンコールでの多くの拍手が舞台の素晴らしさを物語っていたように感じました。舞台上からその光景をご覧になって、どのように感じましたか?
(岡本)圭人:今はニコラがなぜあのような考えに至ったのだろうということを常に考え続けている日々なのですが、カーテンコールではいっときですがそんな状態から解放されます。暖かい拍手をいただくと、ニコラになるために頑張ってきたことが報われたと感じます。お客さまに楽しんでもらうため、この素晴らしい戯曲をみんなで立ち上げてきたので、お客さまが喜ぶ顔を見ると本当に嬉しくなりますね。
息子の日本初演の際、お二人はZOOMで対談をしていました。今回、初演時から2年半経って対面してみてどのような印象を持ちましたか?
(フロリアン)ゼレール:2年半前にZOOMでお話しした際、とても深い会話が出来ました。圭人はこの世の中に深くコミットしているなと感じましたよ。すぐに彼は特別で、思慮深く真摯な人なのだとわかりました。僕ら二人ともアーティストですが、アーティストには常に何かを探し求める姿勢が大切です。そして、彼にはそれがあります。“思いを馳せること”と言えば良いでしょうか。そしてまた、ニコラにもそれがあります。彼は深く思いを巡らせているのです。彼は17歳ですが、ときたま100歳のような一面を見せます。圭人にもそんな面があります。
数日前に再会を果たしたわけですが、本当にここに来て良かったと感じています。日本に来てからの全てのことにとても感動しています。舞台、そして俳優たちの素晴らしさに驚いています。「Le Fils 息子」と「La Mère 母」両方に登場する圭人が演じる一家の息子ニコラは家族の中で息子でありブラックホールのような存在なんです。そんなニコラを演じている圭人の強烈な美しさと意味深さを舞台上に確認することができて良かったです。圭人君、本当にありがとう。
圭人:僕の方こそ、こんな素晴らしい戯曲を書いていただいて、本当にありがとうございます。僕にとってすごく特別な戯曲ですが、それにも増して、この物語は劇場で語られなくてはならない作品だと強く思わされました。なによりもここ日本で語られなければ、と思っています。なぜなら若い人たちの自殺率が世界でも群を抜いて高いからです。実際、僕がこの役を演じる際の原動力の一つとなっているのが、なんとかその悲しい出来事を一つでも食い止めたいということなんです。ゼレールさんが書いた言葉、そしてストーリーがそんな若者たちに自殺を考えさせるきっかけの一つになると信じています。
ゼレール:そう言ってもらえてありがたいです。と言うのもそのことが私がこの戯曲を書いた理由であるからです。我々一人一人は違った人間です。ですが一方で、多くの人が同じ悩みを抱えています。例えば親が抱える不安、愛する人を救いたいと思ってもどうしたら救えるのか分からない、必要とされたいと願っているのにそれが叶わない、それは本当に辛いことです。実際、実に多くの人たちが私の書いた劇と同じような経験を味わっているのです。そして恥という概念、精神の病気だという自責の念から誰にも頼らず、自分一人でそのような悩みを抱えてしまう。私の劇では多くの人々の間で感情を分かち合うことについて試みを行い、そして傷ついているのになぜそうなってしまったのか分からないという複雑な状況を示すということに注視しています。劇に登場する親たちは本当に良い人たちで、彼らは息子を助けようと努力を惜しみません。ですが、どうしたら良いのかわからず、根拠のない「大丈夫」の言葉をかけ続けるのです。
さきほどゼレールさんがニコラのことをブラックホールのようだとおっしゃったのが興味深いのですが、圭人さんはニコラをどのように解釈していますか?
圭人:2年半前に「Le Fils 息子」でニコラを演じた時、観てくれた人が“この劇に自分は救われた、上演してくれてありがとう。劇を観て、自分は一人ではないと感じました”というコメントを書いてくれました。劇中のニコラは一人でどうしたら良いのか、なぜこうなってしまったのか、わからずにいたのだと思います。ゼレールさんが言ったように、自分のことを話すのは彼にとって恥だったのでしょう。孤独を感じ、自分は一人だと思うことは人にとって最悪の感情だと思います。でも、ニコラのような孤独に陥っている人間を演じることで客席の誰かの孤独を救うことが出来れば、上演する意義がありますよね。
ゼレール:実は数週間前に私のインスタグラムに圭人のファンだという人からメッセージが届いたんです。そこには“初演時に圭人が演じた「Le Fils 息子」を観ました。僕が今ここにいる(生きている)のはその時に圭人のニコラを観たからです”と書いてありました。凄いことですよね。これこそが演劇の力だと思います。個人では成し得ないこんなことが起こるのが演劇、つまり演劇におけるヒューマニティーなのですよ。
圭人:演技に関してだけではなく、自分のためだけに何かをするというのが僕にとっては本当に難しいことなんです。なぜなら、僕はいつも誰か他の人のために何かをしたいと思い続けてきました。それこそが僕が最大限にあらゆることをこの創作につぎ込んできた原因です。なぜならこの劇を観た人たちの何かを変えることが出来たらと願っているから。
役者になった理由はそのあたりにあるのでしょうか?
圭人:物語を届けるのがとても好きなんです。僕はもともと大声で多くを主張するようなタイプではありません。ステージに上がる前には自分を空っぽにして、そこにキャラクターを沈みこませて、そのキャラクターが物語を語るように努めます。そのやり方が好きです。
この戯曲「Le Fils 息子」には多くの僕個人の体験そのままという言葉やセリフが出てきます。それに加えて、その劇を実際の父と一緒に演じているわけです。
「Le Fils 息子」舞台より 岡本圭人、岡本健一
実生活では僕が9歳の時に母と父が離婚しました。その時僕は遠く離れた英国にいたわけですが僕が大好きな父と母がなぜ僕を英国に送り出したのか全く理解出来ませんでした。そして父から離婚のことを聞いたのですが、子供でしたので何も出来ませんでした。なぜそうなったのかも一人ぼっちで英国にいたので何も聞けませんでした。「Le Fils 息子」の中には僕がずっと父、そして母に尋ねたかった言葉がたくさん詰まっていました。なので、初めてこの戯曲を読んだ時は“これは僕の物語”だと感じました。僕の場合、その後、大人になって違う角度で物事を見られるようになり、ニコラが苦しんだようにはなりませんでした。でも、日本、そして世界にはニコラのような体験をして悩み苦しんだ人がたくさんいると思います。その意味で、僕は自分の経験を思い返しながら演じているのです。たいていの場合、僕は感情を内面に閉じ込めていましたが、この劇ではニコラとして感情を表に出して思いっきりぶつけています。そこが僕には難しいところであるのですが。でも、それらのセリフはこの物語を届けるために必要不可欠ですし、演出家ショラーさんのお陰で、そしてゼレールさんが書いてくれた言葉のお陰で僕はその言葉を言うことが出来ています。僕が実生活では決して言うことのなかった言葉を今、舞台で言っています。
興味深いことに、ゼレールさんも「私が作品に書く状況あるいは感情は、すべて私が経験して知っていることなのです」と語っています。いつもそのようにして戯曲を書くのですか?
ゼレール:イエスであり、ノーでもあります。と言うのも、私の戯曲は私自身、書き終わった時点でやっと何についての話なのかが分かるからです。何かを主張したくて書き始めるのではなくて、夢をみているように書き進めていくのです。なので、どこに向かっていくのか、次に何が起こるのかわからないまま書き進め、時々立ち止まって削ったりして、最後に完成するのです。何か明確な意図を誇示しているわけではないのです。そして、これが重要なのですが、そこに劇場の観客のために必ず空白を残しておきます。人生経験が豊富な人たちが劇場にやってくるわけですので、彼らはそれぞれの経験から空白を埋めてくれるはずです。私は観客としても全てがすでに埋まって完成した劇はあまり好きではありません。観客が物語のパーツとなり得るような、観客が観ながら何かを疑問に思うような、観客が俳優たちと一緒になってその物語を生きるような芝居が価値のあるものだと思うのです。なので、あえてニコラの行動は謎のままにしてあります。人生は謎だらけなのですから。
精神疾患についてですが、国によって受け取られ方が違います。米国では比較的オープンに語られますが、フランスではまだまだ恥ずべきことだと捉えられていて精神科にかかっているとは他の人には言いません。一方、米国では精神科にかかっていないことの方が恥ずかしいと思われるかもしれませんね(笑)。
圭人:日本ではその話題はまだタブーでしょうね。そればかりでなく、日本では他の人に本当の気持ちを打ち明けるのでさえ難しいかもしれません。自分の場合を振り返っても、僕はこう思うとか、本当はこうしたいとか心の内を父親に語ることはなかなかしませんね。精神疾患に関しては、徐々に欧米に近づいてきてオープンになってきているかもしれませんが、まだまだだと思います。その意味でもこの作品を日本で上演することに意義があると思っています。
公演プログラムの中で、初めから家族シリーズ三部作(「La Mère 母」「Le Père 父」「Le Fils 息子」)を書こうと決めていたわけではないと語っていましたが、結果的に三部作となった今、三部作であることで何かプラスアルファの効果は出たと思いますか?
ゼレール:ご指摘の通りシリーズにするプランは全く無く、2010年にまず「La Mère 母」を書きました。その時もその戯曲自体がどうなるかもわからなかったのですが、ある時ふと 母というのはつくづく孤独なものだな、という感情が生まれたのを覚えています。私に息子が生まれた時に母と一緒に食事をしました。そして生まれたばかりの赤ん坊の世話をしながら、誰かが昔、同じように自分のことを世話してくれたのだなと思いを馳せたのです。もちろんそれは私の母親です。そこで、そのように世話をしてくれたことに感謝を示さなければと思ったのです。息子なのにあまり実家に帰らなかったので。そう言う意味で、「La Mère 母」は私の罪の意識が込められています。
その後「Le Père 父」を書きました。老年のフランス人の素晴らしい役者(Robert Hirsch)がいて、私は彼と一緒に仕事をしたいと常々思っていました。当時、彼は86歳だったので、その希望をどうしても叶えたいという強い思いから「Le Père 父」を書いたんです。自然とストーリーが自分のところに降りてきました。最初は認知症についての劇を書くつもりなんかなかったのですが、その時ふと自分を育ててくれた祖母のことを思い出したんです。私が15歳ぐらいのときから彼女は痴呆の兆候がで始めていたのです。とは言え、劇は彼女のことではありません。
そこまで来て、こんどはトリロジーを書きたい気持ちが湧いてきたのです。どうせなら、と。一軒の家を完成させるようなものですかね。さらに言えば、それらの劇と劇の間になにか秘密の関係が生まれるかもしれないなと思ったこともあります。
そこで次は「息子」となるわけです。コンピューターのデスクトップに新たに「息子」と名づけたファイルを作ったのですが、しばらくはそのファイルは手付かずになっていました。ですが、ある時期に私自身が実の息子との関係に悩む期間がありまして、そこでそのファイルが使われる番が来たわけです。「Le Fils 息子」という戯曲を書く必要性があったのです。
同時に誰かを愛し、世話をすることの難しさというものを私自身が文字にして吐き出す必要性もあったのだと思います。と言うわけで、次から次へとストーリーが降りてきたのです。とは言え、そうなるためにはいつも心を開いておかないとならないと思っています。
圭人:ゼレールさんがおっしゃったように僕にもちょっと母に対して罪の意識があったので、「La Mère 母」を読んだあとすぐに僕の母親と話をしました。
この戯曲の凄いところは、劇を観ながら例えば僕は僕の母親を、そしておそらく観客は彼らの母親について考えるだろうということです。「La Mère 母」を読んだあと、母のところに1週間ぐらい泊まって、劇の親子と同じようなとりとめのない“コーヒーはどう?”“あらあなた紅茶派だったんじゃない?”なんて会話をしました。また、その際に母とホプキンス主演の「Le Père 父」の映画を一緒に観たのですが、母方の祖父が二年くらい前に亡くなったときのことを思い出して祖父の行動を懐かしく思い返したりしました。ゼレールさんの戯曲を読んだ後には家族に対してもそれまでとは違う視線を持てるようになったと思います。
フランス語で書かれたフランス人家族の話なのに、これらの家族の三作品は世界中で誰にでもどこか当てはまる話だと思います。
雑誌のインタビューで圭人さんは「La Mère 母」に関して、芝居のキーとなるのは「愛」なのではないかと答えていました。
圭人:母親が「La Mère 母」の初日を観に来てくれたのですが、その時に母が「自分が離婚をした時、もし圭人が英国にいなかったら絶対にアンヌのようになっていたと思う」と言っていました。僕のことをとても愛していたので、僕を手放さないよう誰にも渡さなかっただろう、と。でも僕は英国にいて、さらに有名人である父のもとで多くの人にかまってもらえる特殊な状況下にあったということで、母は僕に“幼い時にギュッと抱きしめてあげられなくてごめんなさい”と言ってくれました。母は僕を強く欲していたのに一緒にいられなかったので、一歩間違えばアンヌのようになっていただろうと話していました。
ゼレール:そうなのですか。圭人が遠くに行ってしまって、彼女は本当に辛い思いをしたでしょうね。
圭人:僕が「愛」をキーワードに挙げたのは、「La Mère 母」のニコラは「Le Fils 息子」のニコラよりももっと複雑な状況にあると思っているからです。と言うのも、まずニコラが本当に存在しているのかどうかさえ不確かだと考えています。最初はなぜ彼が実の母親に対してあんな態度をとるのかわかりませんでした。演出家のショラーさんは全て愛ゆえのこと、人を愛しすぎるとそうなってしまうのだと言っていました。
愛は人としてとても重要な感情ですがそれが度を過ぎると何かが起こるのだと思います。
時として、知らない人には出来なくても、愛する人には暴力的になり得るのかもしれません。ニコラの母、父への愛が彼の行動の鍵となるのではないでしょうか。
ゼレール:「Le Fils 息子」ではニコラは困難を経験しますが「La Mère 母」では愛の放出を受け止めます。ニコラに起きたこれらのことを母や父は受け入れなければならないのですが、そこにパラドックスが生まれるのです。子供たちを愛する親はどうにか彼らを守ろうとします。ですがそれが叶わないのが「Le Fils 息子」の話です。つまり子供を愛するということは、時に彼らを突き放す、自由に彼らの人生を生きさせることも必要だということです。親にとっては寂しいことだとは思いますが、時が来たら新しい誰か、例えば恋人とかに役割を譲渡することも重要なのです。その意味では、愛するがゆえに送り出すことも必要です。
この劇にはこの他にもさまざまなパラドックスが含まれています。ですが、それが人生なんです。矛盾だらけで、わからないことだらけです。
フロリアン・ゼレール、岡本圭人
今回は二作品を同時期に観ることが出来る世界初の特別企画です。どんな効果を期待しますか?
圭人:僕にとっては二作品を同時期に上演するというのはとても意味があります。なぜなら二本とも今観るべき素晴らしい芝居だから。それに、観客にとって何より嬉しい企画ですよね。僕の友人が昨晩「La Mère 母」を、今日は「Le Fils 息子」を観てくれたのですが、同じ俳優たちが違った作品を演じるというのは実に面白いですし、楽しんでくれたようです。
ゼレール:「La Mère 母」では同じシーンを繰り返す、繰り返すと言っても全く同じではなく少し変わって繰り返されるのですが、まるで脳内で同じメロディーが反復されているように繰り返されます。それに加え、今回は二作品上演ということで、同じ役者が同じ名前の役を演じるということもあり、二つの作品の間にそのような重なるところが感じられるかもしれません。同時期に二作品を上演するというのは私にとっても初めてのことですが、素晴らしい企画だと思います。同じ役名でもそれぞれの状況は違っているので、両方からリアルとは、何が真実なのか、と自身に問いかけながら彼らの人生を客席から追体験し、楽しめるでしょう。
圭人:僕は毎日二人のニコラを演じ続けているわけですが、終演のときは毎日違う境地にいます。そして、その境地というのはその前の日には想像もしなかったような、毎日違ったところに到着しているのです。それこそが演劇だと思います。2時間の舞台を経験し、思いもよらなかったところに行き着いたりする、それが演劇なのでしょう。ゼレールさんが劇作について、書き始めると思いもよらなかったところに進んでいくと話していましたが、僕の場合も全く同じで、同じニコラを演じているのですが、役者としてフィナーレにはいつも予想もしていなかったところに着地しています。