東京芸術祭2019「芸劇オータムセレクション」で全編手話(ロシア手話)によるチェーホフ「三人姉妹」を上演し、多くの劇場通いを行なっている人々の目を醒させたロシア生まれの42歳の演出家ティモフェイ・クリャービンが東京芸術劇場へ帰ってくる。
今回クリャービンが手がけるのはヘンリック・イプセンの代表作、1879年発表の「人形の家」。その近代演劇の始まりとされる原作をモチーフに作られたのが今回の「NORA」。夫、家庭に属する“人形”であった主人公のノラが家族を置いて家を出るという筋書きから女性解放、またはフェミニズム演劇の走りとして知られる名作「人形の家」を、今はヨーロッパで活動するクリャービンがまさに今の私たちが過ごしている社会に時を移し、我々が日々の生活で手放すことがないスマホでの人間同士のコミュニケーションというスタイルを介してノラの心の内の変遷を描いていく。
ということで、役者陣はストーリーと台詞を頭に入れるのに加え、実際に舞台上でリアルタイムにメッセージを入力するスマホの操作技術を習得することも大事な演技の一環として課せられているという。その舞台上で打たれたメッセージはその場で舞台上のスクリーンに映し出され、観客と共有されることとなる。
日々稽古場で新たな演技技術を磨いているのが主人公ノラを演じる黒木華、そしてその夫ヘルメル役の勝地涼、ノラの古くからの友人クリスティーンの瀧内公美、ノラを脅して追い詰めるクログスタ役の鈴木浩介らの俳優陣だ。
Jstages.comでは開幕が迫った稽古場を訪ね、演出のクリャービンにスマホでやり取りをする今日の家族の繋がり、そこに潜むコミュニケーションの歪み、さらには舞台で展開される日本語入力を駆使した演出法などについて話を聞いた。

(c) Nobuko Tanaka
なぜメッセージでやりとりをするという方法をとったのですか。
私が常に探求していることのひとつに、ステージ上でのやりとりや演技を新しいプランで出来ないかということがあります。
今回のスマホを介する方法をとった理由は、一つは全く違うコミュニケーションのやり方で表現したいということ、そしてもう一つはスマホがここ15年くらいの間に私たちの生活の中で欠かせないコミュニケーションの手段となっているという現状があるから、ということです。そういったものを使いながら何百回もいろいろな所で上演されてきた古典作品を現代の我々のコミュニケーション手段に置き換えてみたらどういったものが出来るのかということをやってみたかったからです。
稽古場では日本の役者さんたちと、どのようなディスカッションがありましたか。
とても素晴らしい俳優陣に恵まれたと思っています。お互いによく理解できていると思います。私は今回のような共同制作の場合、独裁者にならないように気をつけています。なので、彼らからの提案も広く受け入れています。今回も彼らから面白い提案を投げてもらっているので、取り入れながら創作しているところです。
黒木華さんですが、ほぼ出ずっぱりのこの大役に果敢に挑んでいただいています。衣装替えも多いですし、スマホに関してもただの台詞のやりとりだけでなくそこにタイミングを計る難しさですとか、本当にやることがたくさんあって、ただ演じるだけでなく技術的にやらなければならないことがたくさんある中で非常に素晴らしい演技をしてくれていて、彼女に恋をしていますよ(笑)。
ヨーロッパと日本でスマホの使い方などに違いがあると思いますが、その点はいかがですか。
まず時代の流れとともにスマホ自体が革新的に変わってきていますよね。例えば、今作をスイスで初演したとき(2018年)にはまだボイスメッセージというものはありませんでした。スマホがどんどん進化しているので、ボイスメッセージを使用した演出に変更するなどのような変化はあります。
最後に上演したのはブルガリア、ソフィアで4年前になるのですが、その時にも似たような変更はありました。
また、ヨーロッパではコミュニケーションツールとしてWhatsAppというアプリが人気でよく使われているのですが、俳優さんやスタッフさんの指摘で日本ではWhatsApp ではなくLINEが主流だということで、LINEを使うことにしました。私も早速LINEアプリを入れましたよ。
今回の日本での再クリエーションで新たに気づいたことは?
初演はスイスでドイツ語、2回目はブルガリアにてブルガリア語でやったのですが、今回は日本語ということで言語が全く違います。例えば、ヨーロッパでの上演の際はスクリーンに映し出される文字がアルファベットということで文章を大文字で表記して強調するという表現演出を使ったのですが日本語では機能しません。そこで俳優さんたちが色々と知恵を出してくれて、絵文字を多用することでそれに代わる効果を出したりしています。
いわゆる台本というものはあるのですが、それをどのようにスクリーンの文字として書き起こすかが違います。例えば一つの文章があるとして、それを2回、3回とわけて送信したり、あるいは2つの文章を1回で送ったり。それに関してどうするのかはその時の気分で変わってくると思うので、全て役者さんたちに任せています。その時の気分で変わってくると思うので、役者さんたちに完全に自由を与え任せているので、おそらく2回、3回と観劇しても全く同じということは無いと思います。
約150年前に書かれたイプセンの原作と今回の舞台、変わったことと変わらなかったことは何ですか。
女性の自立、フェミニズムに関してはいつの時代にも存在しているテーマです。ノラは自分自身を取り戻すために、最後子供を置いて家を出て行きます。女性の自立というのがこのイプセンの戯曲の核心であり、意義のあるテーマです。どの時代においてでもそれは表現するべきものだと思っています。
インターネットの発達とスマホの広がりが我々に距離を感じさせなくなりました。例えば私はヨーロッパにいる家族と毎日会話をしています。昔なら国際電話を申し込んでやっと繋がるという本当に大変なことだったのですが、今は世界中どこにいても瞬時に繋がりますので距離を感じなくなりました。そういった空間的な感覚が人々から消えていっていると感じます。その反面で、このテクノロジーはどんどん人を孤立化させるのでは無いでしょうか。今は生身の人間と喋るということが出来なくても、全く平気になってきています。
また、聾者の人々にとってもそれらの文字によるコミュニケーションは救いの手になっていて、彼らの世界を広げています。
ということで、テクノロジーの発展に関してはポジティブな面とネガティブな面の両方があるのですが、私はスマホを使ったやり取りは絵文字も含めて一つの言語だと思っています。今回の「NORA」に登場する人物たちは言葉を発しての台詞のやり取りも行いますが、そのほとんど、8割ぐらいがテキストを打ったり、ボイスメッセージを送ったりしてやり取りをします。それを見ていると、普通の台詞を発する芝居と何ら変わりないとつくづく感じます。喋っていた言葉が入力した言葉に変わるだけでなんら変わりません。ここでの入力言語が新しい言語として定位置を獲得してきたのだと思います。
例えばですが、ベルリンにいる私が日本に行くことになった時、このスマホで航空券を手配、ホテルも予約してスマホでタクシーを呼んで空港へ行き、日本に着いてからも同じようにスマホでタクシーを呼んで、スマホでチェックインを済ませ、観たい芝居をスマホを使ってチケットを入手し、観劇後のレストランも検索して予約、と気づいたら誰とも話さずに全てのことがスマホ一つで出来てしまうのです。
「人形の家」は言葉は交わすが気持ちが伝わっていないディスコミュニケーションの話でもあると思いますが、コミュニケーション方法をアップデートした今回の舞台ではそのあたりはどのように描かれるのでしょうか。
スマホでのやり取りでは、例えば本当は怒っているのに“とても嬉しい”というメッセージを送ることも出来ます。あと、書いて送る前に消去するということも出来ます。実際、目と目をあわせて話をすると、そこには表情があるので嘘はつきにくいのだと思いますが、スマホを使うと簡単に人を騙したりすることが出来ます。嘘をつきやすくなる、つまり新しいテクノロジーによってコミュニケーションが簡単になるようで、実は歪みやすくなるといったことが起こる。それがこの戯曲にあっているのだと思います。
ドラマターグのロマン・ドルジャンスキーさんが公演へ向けてのメッセージで「劇場が『どんな物語』を上演しているかはさほど重要ではない。最も重要なことは『どんな風に』語られているか、私たちはヘンリック・イプセンによって150年前に書かれたストーリーを現代ならではのコミュニケーション言語で上演することを決めた」と語っていましたが、それに関してはどう思われますか。
ノラ(「人形の家」)はおそらく世界中で一番多く上演されている戯曲の一つだと思います。なので、いかにそれを見せるかが重要なのだと思います。それこそが新しい解釈なのだと思います。内容は一つ(変わらない)ですが、見せ方は何百通りもあるからです。
なぜ古典テキスト、イプセンやチェーホフを題材に創作を続けているのでしょうか。
これまでさまざまな手法で演出されてきた有名な戯曲を独自の解釈で上演するということに私はとても興味があり、そのような挑戦をすることに惹かれるのです。有名であればあるほどこれまで色々な方法で演出されているわけですが、そんな戯曲を私独自の方法、これまでになかった方法で創作するのがとても面白いのです。
この夏からドイツの州立劇場コトブスのチーフダイレクターに就任されるとのことですが、前衛的で政治的と称されるドイツの演劇界でどのようなことを推し進めたいですか。
コトブスはポーランドとの国境近くにある街です。ドラマターグのドルジャンスキーさんも私と一緒にそこで働くことになりました。
私たちはその劇場で、近隣の(旧)東欧諸国、ポーランドやルーマニアなどからさまざまな演出家を呼んで新しいことをやってみたいと考えています。ドイツの演劇界では色々なことが行われているように思われるかもしれませんが結構閉ざされているので、私たちはもっと世界に開かれたものをやりたくて、コトブス州立劇場をより国際的な劇場にしようと考えています。
テクノロジーが進化した現代にあって、決められた時間に劇場に足を運んで鑑賞する演劇、シアターの役割とは。
劇場で観劇をする場合、演者と観客の一体感、両者のエネルギーの交換が生まれます。また知らない者同士が客席に集まるという状況下で、同じ舞台を観ることで観客の間にも感情の共有が生まれると思います。なので、劇場に来た時は知らない者同士でも、帰る時には皆一つ大きな共感できる気持ちを持って劇場を後にすることになります。そのような一体感を得られる場所が劇場なのです。
「NORA」
東京公演
日程:2026年7月15日(水)〜26日(日)(全15回公演)
会場:東京芸術劇場 プレイハウス
詳細:https://nora.geigeki-classics.jp
宮城公演
日程:2026年8月1日(土)
会場:えずこホール 大ホール
愛知公演
日程:2026年8月15日(土)、16日(日)
会場:春日井市民会館
