下島礼紗
KAAT xケダゴロx韓国国立現代舞踊団 「黙れ、子宮」
何とも挑発的なタイトルのダンス作品「黙れ、子宮」はダンサーであり振付・演出・構成を担った下島礼紗の人生で起きた個人的な一大事を題材にした作品だ。
自身が主宰するダンスカンパニー「ケダゴロ」で全作品の振付・演出・構成を担当している下島は連合赤軍のリンチ殺人やオウム真理教を扱った「sky」(2018年初演)、指名手配の殺人犯福田和子を追った「ビコーズカズゴーズ」(2021年)、韓国で多くの若い犠牲者を出した船舶事故を題材にした「세월(セウォル)」(2022年)など、実際の事件や社会問題を扱った作品を立て続けに発表し、異彩を放ちながらの躍進を続けている。
18歳の時に“あると思っていたものがなく、ないと思っていたものがある”ことを唐突に知らされた下島が感じた自分への“某”*という問いはどこに辿り着いたのか。再演となる今回でさらにその問いを深く掘り下げたと語る下島に今回の作品のテーマとなる自身の子宮の存在について、そして彼女が目指すダンスのあり方について聞いた。
*「某」はKAAT神奈川芸術劇場2024年度のメインシーズンタイトルとなっている。
—2020年に韓国国立現代舞踊団から「My family are off-limits(家族は立ち入り禁止)」というテーマで作品創作をという依頼を受けて創ったのが2021年の初演舞台ということですが、その際にそのテーマについて、韓国側からどのような要求があったのでしょうか。
当時はコロナ禍で、日本での自主公演も中止になって大変な時でした。これまで見たことのない光景が目の前に広がっていて、ある意味で芸術も人類もふるいにかけられているなという、私が人類に対して思っていた違和感みたいなものがそこで一気に淘汰されていっていた時期だったと思います。
コロナ禍だったので、韓国に行くということですら大変な時期でした。まず2週間の隔離期間があり、PCR検査も10回以上は鼻に綿棒を入れられました。その隔離期間中は外出出来ないということを知らなかったのですが、日に3回の食事がドアの前に置かれてそれを食べるだけという生活を余儀なくされました。そんな状態だったので、正直、創作どころではなかったのですが、それでも自然とクリエーションはしていたのかも、と今になって思います。何かクリエイティブなものを創ろうとしているうちはまだ理性の範疇なのだと思いますが、コロナ禍が自分の中の制限(リミッタ)を良い意味で外してくれたと思っています。
主催者側からは“家族は立ち入り禁止”というテーマでとしか言われていませんでした。韓国、シンガポール、そして日本という3カ国の振り付け家によるトリプルビル公演だったのですが、アジアにおいて家族というものをどう捉えるか、といったフェスティバルだったと認識しています。
コロナによって外れたリミッタのようなもの、どうせ死ぬのだからどうでもいいといった感覚から、ずっと理性の中に隠していた自分の家族の話や子宮が無いという話が、今こそ出るべきだと感じられたのだと思います。こうして始まったのが「黙れ、子宮」の創作でした。
—なるほど、以前、日本でも子宮に関しての作品をいつの日か発表したいと思っていたと語られていましたが、そのようなきっかけ、思いがあったのですね。
アーティストとして活動しながら、子宮が無いということを明らかにすることはちょっとずるいなと思っていたんです。言ってしまえば、それはいいネタであるので、それを使って活動してしまうとそのレッテルが前面に出てしまうと考え、それは出さないということを自分に課していました。決してネガティブな意味で隠していた訳ではないのですが、自然に出すタイミングが時代と合致したという感じですね。
—作品の方向性が決まったところで韓国制作サイドとは話し合いもなされたと思いますが、どのような反応でしたか。
まずはこういった話(子宮が無い話)がし易いというのがあったと思います。なぜかと言うと、創作過程に通訳が入るからです。日本で子宮に関する作品を創った場合、「実は私、子宮が無いんです。あとはそのへんを察して下さい」となると思うのですが、韓国の創作では通訳さんがいたので、その方にちゃんと伝えるため、そこに曖昧さがなかったんです。つまり、“私は2011年に子宮が無いことをお医者さんに告げられました”、はい、どうぞ訳して下さい、となるわけです。この一つの過程を経ることで、私もクリアーに話をするようになりましたし、さらに通訳さんが伝えている間に自分の中でもう一度整理し検証できたんです。なので、自分が経験したことをもう一度解釈して噛み砕いていくという作業をすることが出来ました。
また、韓国という外国で、今後そんなに会うこともないだろうという心持ちのやり易さがあったのも事実です。これらのことがこの作品が立ち上がっていくことが出来た要因だったのではないか、異国同士だったから出来たとも言えると思います。もし日本で作っていたら、もっと曖昧に、観客に感じ取ってもらうことを託したものになっていたかもしれません。
—現地の反応はどうでしたか。
韓国ではあまり観ることのないような作品で、お陰様で反応は大きかったですね。韓国は儒教文化の影響が大きくて、自分の祖母であっても敬語で話すとか、目上の人に対してのマナーが厳しい国です。多数派であるキリスト教文化の影響からLGBTQなどのジェンダー問題に関しても厳しいところがあります。それが彼らの文化であり、教育なんです。若者でも政治に積極的に参加していて、実は私も滞在中にデモに参加してみましが、若いカップルが手を繋いで歩いていたりして、デモに行くのが当たり前という雰囲気でした。
現地での反応ですが、まず儒教の国であり「黙れ、子宮」なんていうタイトルからしてとんでもないという声もありました。ですが、やはりそこは人間なので、実のところいろいろとあるわけで、その意味で本音を出したこの作品が有り難がられたというのが正直な印象です。私自身は特別その意図があったわけではないのですが、韓国の人たちにとっては大きな問題提起となる作品として受けとめてもらえたと思っています。
韓国のコンテンポラリーダンスはとても技術が高いのですが、韓国は政府が芸術文化の促進にとても力を注いでいて、それらを通して世界に出ていくということを国の戦略として実行しています。
一方で、私のダンスの作り方というのはダンスのスキルをほとんど気にしない作り方なので、それが韓国ではどう映るかというのがありました。結果として、それがある意味とても新鮮に映ったのだと思います。私は外国人なので下島礼紗というよりも日本人の振り付け家という捉えられかたから、例えば漫画の影響があると言った感想もありました。国が変わればそのような違いは出てくるのが普通です。作品自体は日本で上演するのと全く違いがなくても、観客が変わることによって作品は自動的に変わってくるものです。以前「sky」という日本の連合赤軍事件を題材にした作品、連合赤軍のリンチという集団行動はダンスの集団ともリンクするという作品を2019年に香港で上演した際、香港では民主化デモの真最中で催涙弾などが飛び交っていたんです。香港が中国から独立しようとしている時に作品内でインターナショナルが流れる日本赤軍を題材とした作品なんてとんでもないという危ない状態になりました。そこでも日本での上演との違いを実感させられました。それを経験した時に、その作品が社会と混ざり合っていく瞬間に立ち会えたことが舞台芸術の希望として感じられた瞬間でもありました。
—その初演から3年経った今回の作品について、時を経て変わった、変えたところは。
2021年の初演から22年23年と再演を繰り返しているのですが、今回の24年版では韓国側のダンサーを含め全メンバーが入れ替わっています。直前まで韓国側は前回と同じダンサーが出演する予定だったのですが、そのダンサーが妊娠しまして、結局そのダンサーには私のアシスタントとしてプロジェクトに参加してもらうことになりました。「黙れ、子宮」という作品で妊娠によって出演者が交代することになり、それについても運命的なものを感じています。21年に韓国で上演した際に出演していた3人のダンサー(下島を含む)それぞれの生活にこの数年で変化があり、今回は新たなダンサーでの作品となりました。私自身も今回はこの作品を外から眺めて、私が踊っていた部分を他のダンサーに託すことにしました。
韓国では生まれた時点で1歳とする数え年で年齢を数える伝統(2023年6月28日に国際基準に準じるということで満年齢が使用されるようになった)があることを知り、その方が理にかなっていると感じた私は子宮が造られなかったのではなくて、お母さんのお腹の中でこの世に子宮を持ち出さないことを決めて、自分の意志で取り外したという仮説を立ててこの作品を創ってきました。
実は2011年3月に医師から子宮が無いと告げられた時に、さらに医師からレントゲンの画像を見せられてタマのような影があって睾丸かもしれないと言われました。その時の私、18歳ですよ。「睾丸かどうかの結果がわかるまで3カ月ぐらいかかります。もしそうであった場合、あなたは男性です」と言われたんです。当時、カッコイイ彼氏もいたのに、、、。
ちょうど東日本大震災が起こった時だったのですが、それよりも私の中では睾丸があるのか無いのか、で夜も眠れなくて、その間自分は何なのかとずっとパニック状態でした。まあ、3カ月後にタマは無いということが確認されたのですが。結局、その時に自分が子孫を産み繋ぐ可能性が断絶されたわけです。そこで私は人間として子を産んで人間界を創っていかなければいけないというある種の枷から外れたように感じ、ある意味ラッキーなのかもしれない、と考えたんです。ある種の解脱のようだと思いました。
—そこから今回は子宮斑とキンタマ隊の対立という構図に発展させたということですが、どのようになるのでしょうか。
子宮が無くて睾丸があるかもと告げられた時、私はジェンダーレスとかマイノリティーという感覚よりも、むしろ自分が女であることをずっと疑ってこなかったな、と気づかされました。子宮は絶対あると思っていたし、子供は産むと思っていました。ラブラブの彼氏と結婚して鹿児島で子供を産んで暮らしていくと信じて疑わなかったんです。医師から告げられた際に、かえって女という自覚を持ち、自分は女であると強く感じました。
私は男と女というカテゴリーが世界にあるから面白いと思っているんです。そういう前提があったうえで、私のように子宮が無くて睾丸があるかもしれなかった「女」がいる。そういう、辻褄の合わない、どうしようもない、不条理な世界や人間の在り様が私は楽しい。もちろん、こうした現実に苦しんでいる人、看過できない抑圧もあります。でも私は人間の理屈では捉えきれない、そして割り切れもしない心や身体にずっと惹かれ続けています。だからあえて、男・女という「性別」が、そもそものところで人間に備わっているということが私にとって重要なんだと、語弊を恐れずに言います。
子宮とキンタマをめぐる壮大なダンス作品、つまり子宮VSキンタマの戦いにしたのは、楽しく異国の世界を見るように、宇宙から自分達人間を眺めるような作品を創りたかったからです。これまで福田和子さんや、連合赤軍事件、オウム真理教事件などをフィールドにして作品を創ってきたのを、今回は自分の身体にフォーカスして人間を描きたいと思い創作しました。
(c) Nobuko Tanaka
下島礼紗
—ダンスは何かを知るための手法であると話し、既成のダンスに対する疑問を形にしてきた下島さんですがコンテンポラリーダンスの可能性をどう考えていますか。
もともとバスケット選手になりたかった私がなぜダンスを始めたかと言うと、7歳の時に友人に誘われてジャズダンス教室に通い始めたのがきっかけです。そのジャズダンス教室の先生が、ある日よさこいを取り入れますと言い始め、私たち生徒は鳴子という楽器のようなものを持たされてジャズダンスを踊ることになったんです。それまでは嫌々教室に通っていたのですが、そこからダンスが楽しくなっていきました。毎週末、地域創生のためにいろいろな地方を巡って踊っていたのですが、そこではおじさんたちがお酒を飲んで騒いで、その傍らで踊りを踊っていました。そこでは様々なぐちゃぐちゃした人間模様、恋愛沙汰もあり、そんなものを見るのがすごく楽しかったんです。私自身、踊りに行っているのか人のあれやこれやの営みを見に行っているのかわからないほどでした。でもみんな踊りに行くということを口実に普段とは違う世界を楽しんでいるようでした。そんな人の営みを見るのが楽しくてダンスをやっているというのは今も変わっていません。ダンスの既成概念を壊そうとしているとおっしゃいましたが、実は私にその概念が無いというのが本当のところです(笑)。
ダンスで子宮とキンタマの壮大な世界を、なんて言えることが本当に嬉しいことです。
ダンスは私にとって人の営みを見る手法なので、その手法がダンスでなくてもそれはそれで良い。なので、本当は人が押し寄せる遊園地みたいなもの、怖いもの見たさで足を運んだところでエンタメを味わえるようなものを将来作りたいと思っています。
KAAT xケダゴロx韓国国立現代舞踊団 「黙れ、子宮」
KAAT神奈川芸術劇場—<大スタジオ>
2014年12月13日(金)〜15日(日)