「KOTATSU」の2年ぶりの世界初演を果たした平田オリザに彼が学長を務める豊岡の芸術文化観光専門職大学の学長室で「KOTATSU」の作・演出家パスカル・ランベールとの関わりについて、新作「KOTATSU」について、そして豊岡演劇祭の目指すところについてはなしてもらった。
平田オリザ・学長室にて
芸術文化観光専門職大学の正面入り口
Q: 長年の盟友であるパスカル・ランベールさんは平田さんからするとどんな人なのでしょうか。
今はフランス人もとても多様になっていますが、特に彼はパリ北西部にあるジュヌビリエ国立演劇センターの芸術監督をやめてからは世界各地を飛び回って仕事をしています。他の芸術監督と比べると芸術監督になったのが少し遅く、デビューが多分遅いのだと思うんです。その分、いろいろなことをしてきた彼の経験が今の演劇活動に活かされているかなと思います。多くのフランス人演出家のようにずっと演劇畑のエリート演出家としてのキャリアを積んできたタイプではないんですよ。
Q: 「KOTATSU」を最初に読んだ時の印象は?
これまで二人で色々な形で協働してきました。その集大成というか、日本の演劇史的にもこれまでになかったタイプの芝居だと思います。
日本では築地小劇場以降ずっと、チェーホフとかイプセンとかのいわゆる“翻訳劇”というのをやってきた歴史があります。100年目(築地小劇場開設が1924年)にしてやっと外国の作家が日本人の俳優のために、日本人俳優が演じることを前提として書いた作品が現れたという意味で「KOTATSU」は歴史的にも意味のある戯曲だと思っています。
たとえばチェーホフとかイプセンにも、日本の人々はそんなに饒舌には喋らないという違和感を感じることがあります。当然「KOTATSU」もフランス語からの翻訳劇ですからその辺の無理はあります。劇の家族のように皆がずっと喋り続けているということは日本ではまずありません。ですが、これならあり得る、というところでみせているところが上手いと思います。そうは言っても彼はフランスの作家なので、ヨーロッパ文学の古典の特徴、例えば代々続く名家の三代目ぐらいになって芸術家が出てきたり、その上流一家がだんだん衰退していく、というスタイルは踏襲していますよね。トーマス・マンの「ブッテンブローク家の人々」のような。ちなみに僕はそれをモチーフにして「ソウル市民」を書いたのですが。「KOTATSU」の長女公美の旦那、滋という元プロ野球選手はヨーロッパ文学だとおそらく軍人になるのでしょうね。だいたい商売の一家というのは一旦盛り上がり、そのあと芸術家みたいな人が入ってきて衰退する、みたいな。まあそういうヨーロッパ文学のある種オーソドックスな手法と日本的なものが「KOTATSU」ではうまく融合しているなと思います。
Q: フランス人が描く日本人一家なので無理が出るのはわかるのですが、かえってそこが面白かったと感じたのですが。
そもそも演劇というのは他人が書いた言葉を喋る芸術なのでどこかに無理は出るのもので、その無理をいろいろな形で克服するわけですよね。それは俳優の身体性だったり、ある種の様式であったりとか。私たちがやっていた現代口語演劇というのもある種の様式なので、まあそこに今回はうまく当てはまったなと思います。
Q: フランス人が見た日本が描かれているわけですが、それが見ている私たち日本人にとても刺激になっていると感じました。
そこが重要なところで、多文化共生とか異文化理解と言いますけれど、芸術の世界でその意味があるとすれば、やはり他者から見た自分達というものに気付かされるところがたくさんあるということですね。今回はそういった作品になっていたわけです。
Q: 今回の作品に関してはどのへんにパスカルらしさを感じましたか?
パスカルらしさといえば、やはり長台詞ですね。長台詞の応酬というのがパスカルの真骨頂だと思います。日本人は普段あんなに長く喋らないけれど、それをストーリーの中にうまくはめ込んでいったということだと思います。
Q: 今回の平田さんの作品との関わり方、役割は?
基本的にはパスカルの作品なので、パスカルのやりたいことを助けるという感じです。けれど、彼は当然日本語がわからないので、本当はこうゆう風にやりたいんでしょ、と推測して、それならということで少し台詞を足したりとか引いたりとかしました。
初演を予定していた2年前はコロナが直撃しまして、、、直撃と言っても渡航制限が少し緩和されたぐらいの時期だったので、ずっとパスカルがリモートで演出をして、それを僕が現場で修正するという形でやりました。それがとても大変だったので、今回はそれに比べると僕の仕事としてはそれほどでもない、と感じています。
2年前、パスカルは最後の発表会の舞台だけを観られたんです。リモート演出だと時間感覚や空間感覚が少しわからないところがあって、修正しきれないところがあったのでそのあたり、例えば1秒単位の時間のつめとかを今回は施しました。例えば暗転の時間の長さとか、オンラインだとわかりにくいので、そこら辺を確認しました。
俳優たちはこれをただ新劇的な心理アプローチでやってしまうと本当にベタな翻訳劇になってしまうので、そこを緻密に冷静に作っていこうとやっていました。感情を大きな流れではなく、それを僕はよく“意識の流れ”と言うのですが、意識の流れで細かく作っていこう、と。今回は稽古もかなり長くできたので、その成果は出ていると思いますよ。
城崎国際アートセンター/ 舞台芸術のアーティスト・イン・レジデンス施設
「KOTATSU」が上演された江原河畔劇場
Q: 4回目を迎えた現在の豊岡演劇祭の課題を挙げるとすればどんなところでしょう。
コロナで全体の予定がかなりくるってしまったのですが、それでも順調に整備はされてきています。規模も拡大してきているのですが、予算が追いつかないのが課題ですかね。
予算さえあればいくらでも大きくできるのですが、お金の制約があるので、無理せず少しずつ広げていこうと思っています。国際化も一変に国際化してしまうと、全部の表記を2カ国語、あるいは今だと多言語とかにしなければならない。そうなると莫大なお金がかかるのですが、そのわりには費用対効果がないんです。ほんとうに多くの外国人が来ているのかというと、まだそんなには来ていないですから。なので、そこは少しぐらい遅いぐらいでいかなければと思っています。
もっと英語劇を、などの不満がでてくることはわかっているのですが、費用対効果からするとしょうがないかなと。無理に国際化してもそんなに外国人はいないという国際演劇祭の例も見てきているので、徐々にやっていくということですかね。
例えば高校生以下は無料でお芝居を見ることができるのですが、地元の方々全員がお芝居を観るというのはまず不可能なので、そのあたりはこれから検討していきたいところです。
例えばここ豊岡周辺は但東と言って一番過疎の地域なのですが、ここでは地元の民話とかをもとにしたお芝居を作り続けています。その劇は地元の年中行事のようになっているんですよね。なので、演劇祭のプログラムはまだ観たことがなくても、多くの住民に演劇に関心を持っていただけるようにはなってきているかな、とは感じています。
私たちが誇りにしているのはただ演劇祭があるだけではなくて、この芸術文化観光専門職大学があって、全ての小中学校で演劇教育を実行していて、つまりその演劇の足腰がしっかりしているということです。大学の学生たちは実習の単位がとれる授業として演劇祭にボランティアとして関わっています。おそらく来年からは4年性は有償のボランティアとして関われるようになると思います。
演劇祭の開催中、豊岡から観光列車が出ているのですが、その観光列車では駅ごとにちょっとしたパフォーマンスを見せています。将来はそれを定例化できないだろうかということを検討しています。その観光列車も普通だったら外部から、たとえば東京のカンパニーに頼まなければならないところですが、全部自前でできるんです。つまり学生たちが自分達でパフォーマンスができる、というのが強みではないかと思っています。
僕はそれをソフトの地産地消と呼んでいるのですが、自分達で作れるというところがここ豊岡演劇祭の強みだと思っています。
城崎温泉の街並み
「KOTATSU」詳細
上演日程:2023/10/13-15 会場:シアタートラム / 三軒茶屋
詳しくは:こまばアゴラ劇場 03-3469-9107 www.komaba-agora.com