The Guardian新聞より
劇作家が習う必要のあることの一つに「キャラクター展開」というものがある。もしあなたが作り出したヒーローが劇の最初と最後で同じ人間(キャラクター)で変化がみられないとしたら、その劇には何らかの欠陥があると言って良いだろう。それは観客にも言えることで、劇の途中とそのエンディングで観客が全く違う気持ちになることは往々にしてあることだ。
「Deliverance」はその観点に基づいて届けられる舞台だ。それは静かに変化を遂げるショーで、周囲の状況を変えてしまうのだ。普通の舞台と違うのは演者も観客も1人だけでどちらも同じ人物という点。つまりそのどちらの役目もあなたが担うこととなる。
Brite TheaterカンパニーのKolbrún Björt Sigfúsdóttirによるこの作品はあなたの家のドアベルが鳴らされるところから始まる。そこであなたは黒い封筒を手渡され開封するようにと言われる。中にはあなたの台本が入っている。
1人に一つということで、スピードデートの形式をとったベルギーのOntroerend Goedカンパニーの芝居「Intenal」と同様に、「Deliverance」の詳細をここで紹介するのは困難だ。「Internal」の場合、その構成はすでに決まっているのだが、個々の内容に関しては参加者によって変わってくる。なので、例えば批評家は自身の体験を記すことは出来たとしても、他の人々の観劇体験については語ることは出来ない。
「Deliverance」についても同じことが言えるのだが、さらにこちらでは全てがあなたに委ねられることとなる。それによって、奇妙な偶然でもしもあなたが私の選んだサウンドトラック、XTC、Elvis Costello、Scritti Polittiと同じものを選んだとしても私と同じ体験をすることはないだろう。その台本はちょっとした引きがねであって、そこから出てくるものは演じる本人の数だけバラエティーに富んだものとなるからだ。
多くのステイ・インの観劇(オンラインなど)が他の人たちと繋がれないことが問題であるのに対して、この作品はその孤立が有意義に働くのだ。Sigfúsdóttirの台本はあなた自身にフォーカスし、あなたの性的嗜好、あなたの世界との関わり方を浮き彫りにする。それはまるで着せ替えゲームを取り入れたマインドフルネス(自分の意識に集中した)なエクササイズのようなもので、あなたは時に作品の主役となり、時には敵対者、そしてまたある時には傍観者にもなる。つまりこれは私づくしの演劇なのだ。
同居人がいる場合、彼らにはあなたが部屋から部屋をウロウロするのには構わずにいてもらって、あくまでもあなたは自身のペースで書かれているタスクを遂行すること。なぜなら日常が普遍的なものにまで高まるから。
私の場合はコンピューター疲労の景色が輝かしいものに変わったし、、最後には背が高くなったように感じた。