独特な世界観を有する作品で、さらには既存の枠に収まらないジャンルを越えた演劇活動で根強いファンを獲得しているマームとジプシー(Mum&Gypsy)。2007年に藤田貴大が立ち上げた演劇集団で、藤田が全作品の脚本と演出を担当している。2012年、藤田26歳の時に「かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。」で第56回岸田國士戯曲賞を受賞した頃からは「マームと誰かさん」と表し、様々なジャンルのクリエイター、アーティストらとのコラボレーションを積極的に展開し、新しい演劇の広がりを探求し続けてきた。
昨年12月に団体の常小屋の一つである新宿LUMINE0で世界初演を迎えた俳優青柳いづみの一人芝居「ウィステリアと三人の女たち」もそんなコラボレーションから生まれた舞台。これまでも共同で作品を作り続けてきた芥川賞受賞作家の川上未映子の2017年発表短編小説を藤田自らが創り出した(大道具・小道具を藤田が厳選)舞台上で見事に視覚化、舞台という形で転生させていた。
Jstages.comではLUMINE0での公演を終えてツアーのための稽古を開始した藤田貴大を訪ね、今回の舞台の狙いと感触、コロナ禍を経て今思うこと、藤田が思う演劇創作の面白さについて聞いた。

「ウィステリアと三人の女たち」で7年ぶりに川上未映子さんとのコラボ企画を再開させたのはなぜなのでしょうか。
(川上)未映子さんとの共同制作は俳優の青柳いづみと一緒に進めている企画です。一昨年ぐらい前に、改めて未映子さんのテキストと向き合ってみると何か新しい発見があるのかも、と青柳と話したんです。マームとジプシーは2013年から未映子さんの詩を舞台化する作業を開始して、2014年には「まえのひ」、2018年には「みえるわ」というタイトルで全国ツアーを行いました。今回も未映子さんの詩を扱った作品を制作するいうことで準備を進めていたのですが、去年の夏の終わりに未映子さんから「ウィステリアと三人の女たち」という短編小説を舞台化してみてはどうか、という提案がありました。「ウィステリアと三人の女たち」は2018年に発表されたのですが、掲載されている文芸誌の発売日に書店で読んだ記憶があって、とても感銘を受けた小説だったんです。だから、未映子さんのその提案は本当に嬉しかった。

「ウィステリアと三人の女たち」舞台写真

「まえのひ」舞台写真

「みえるわ」舞台写真
藤田さんは様々な人たちとコラボレーションをして作品作りをしていますが、その人たちとはどのような形で共同制作をしているのでしょうか。
誰かとコラボレーションする動機として、リスペクトしている人がどういう手つきでクリエイションをしているか見てみたい、という興味がまず大切だと思っています。そもそも演劇は色んな表現の複合体であると考えていますが、単に衣装や言葉を提供してもらうという意識は持たないようにしています。彼らは何でそれを作っているのだろう、という根本への興味が尽きない人とコラボレーションがしたいんです。例えば、未映子さんはどのようにして言葉に対して葛藤しているのか、間近で見てみたい。未映子さんが考えていること、生きていく中でどんなことに納得がいかなくて何を問うのか、それをどういう言葉を選んで描いているのか。そしてその言葉を青柳の身体を介して、どう発語されていくか。舞台化の作業を進めていると、未映子さんのトーンにずっと当てられている感覚があるし、それは読書して得られる体験ではないんですよね。
今回の公演にあたり「今しか観られないものにしたい」と語っています。その真意を教えて下さい。
今作に限らず、演劇は今しか成しえないものだと思っています。役者もスタッフも今そこ(劇場)にいるし、観客も今そこに来るという、今以外の時間は劇場には存在しません。演劇は“今がぶつかる瞬間”でしかない。
「ウィステリアと三人の女たち」は“今”という意味でも、とても価値のあるものでした。自分は去年40歳になったのですが、ものがたりで描かれる登場人物たちもちょうど我々と同じくらいの世代。30~40代の身体感覚というのはあの頃とは全然違うし、もちろんこのさきどう生きていくかというリアリティもあの頃から随分変わってきたと思う。未映子さんが「ウィステリアと三人の女たち」を舞台化してみてはどうか、と提案したのはなぜなのだろう? というのが、自分のなかで大きな宿題のようになっているような気がするのですが、今この年齢の自分たちだからわかる感覚があって、だからこそ今作に“今”向き合えているのだと思っています。
この国では、未だに夫婦別姓すら認められず、同性婚についても認められていないですよね。自分の感覚としての未来って、現在のような未来じゃなかったし、微かにだけど、もう少し先に進んでいる未来のイメージがあったんですよね。でも正直に言って、現在の日本はむしろどんどん後退しているようにしか思えない。あり得ないと思うことばかりで。こんな時代に、劇場まで足を運んでくれた観客の中には、自分が抱いている違和感を共有できる人たちが少なからずいると思っていて、その人たちに何かを観てもらうというときに、“今”この原作を扱えてよかったと思っています。原作の中には、“今”と繋がる様々な問題意識が詰め込まれていると思うので。

「ウィステリアと三人の女たち」舞台写真
過去のインタビューで創作に関して“自分の目が届く範囲を徐々に広げていくことを意識してきた”と語っていました。
自分のキャパシティを超えたことはしない、というのはひとつルールとしてあるような気がしますね。それは、作品の内側でも外側でも。時間や空間が、自分の目の届く範囲にあることは大切だと思っています。
今作は特に俳優が一人という単位があったので、その条件を楽しめたように思います。もちろん青柳だから実現できたことなのだけど、全セクションが青柳一人のパフォーマンスのために集中できた、というか。青柳も青柳で、普通はできないことにこの環境だとおもいきり飛ぶことができたと思うし。登場人物の四人の女性を、例えば四人の役者さんで演じるというのがもしかしたら普通に思いつくようなことなのかもしれないけど、一人ということにして良かったなあ、と。複数人の役者さんでこの作品を読み解いてしまうと、説明が“ついてしまう”ところがあったと思う。作中の独特な余白や淡いを、“一人だから”曖昧なままできたような感覚もありますね。もしかしたらこのものがたりは、一人の女性のはなしだったのかもしれない、もっと言うと、一つの大きな生き物だったのかもしれない、というような捉え方を意識できました。
一人芝居ですが、青柳さんの方からは何らかの提案、意見などはありましたか。
常にテキストの内容について(ここをカットしたいとかカットしたところを戻したいとか)話し合っているというのはあったとしても、演出的なのところは全て自分の指示によるものですね。意外と、なんていうか、“こういった感情を込めてください”みたいなことを役者さんに言ったことはないんですよ。例えばさっき言ったみたいな、自分の作品解釈としての“これは実は一人の女性だとも思う”みたいなことも役者さんには言わないようにしている。ミザンス(人物や道具の配置、動き)を、言葉と一緒に振り付けとして役者さんに手渡してからは、あんまり演じ方に関しては口を出さないタイプかもしれません。あまりにもイメージとかけ離れる場合は話し合いますけど、そもそもイメージとかけ離れることがあんまりないです。役者さんそれぞれのなかで、言葉も、そしてその人物も育っていけばいいかなあと思っていて、そうやって自然と良くなっていくことに期待しているんですよね。
キャスティングしている時点で、すでにその役者さんがいいと思っているので、その人たちが作ってくれるものを信じたいんですよね。それはスタッフさんもそうで、みんな真剣に作ってくれる人たちが僕の周りには集まっているというところからスタートするわけなので、その先に集まったものをまとめあげるのが演出家の仕事だと思っています。
これも自分が独特なところなのかもしれないのですが、「こういうものを作ってほしい」というような具体的な要求をスタッフさんに出したことはありません。衣装のデザイナーと衣装のディテールの話をしたことは無いし、照明家とこういう灯りをください、と話したことがない。むしろスタッフさんとは最近日常で起きたこととか、こないだ食べたもののはなしをするみたいなミーティングをするんですよ(笑)。そんな一見、ぼんやりとしたミーティングの中から、デザイナーのみなさんは僕の意図をくみとって制作してくれる。僕も僕で、作品に関係のないことは一つもないと思って話しているし、関わっているので、それが伝わるのだとも思うけど。それでスタッフさんたちから最終的に出てきたもので、単に気に入らないみたいなことは、今まで一度も無いです。「これを作ってください」、「こういうのが欲しいです」という話し方だと、想像力が狭まったところからのスタートになってしまい楽しくないんですよね。キャスティングしたみなさんは全員特別な人たちなので、それぞれのポテンシャルのなかで最高のものを用意してくれる。どういうものが出てくるかを楽しみに待っていたいという欲もあるし、出てきて驚く、嬉しい、みたいなことの連続ですね。
LUMINE0での上演が終わった今も、これからのツアーへ向けての稽古ですが、そこではどんな事が行われているのでしょう。
初日はどうなるのか、どう観客に受けとられるかわからない状態でいつも幕が開くわけです。まずはそこに辿り着くまで、ギリギリの状態ですよね。新宿での公演は、まさにそういう感じで。振り返ることなく、走り切りました。そんなプレミアを明けた今は稽古場でフレッシュな頭でもう一度作品を、ゆっくり見直しています。微妙に変更する点をみんなで話し合ったり、改めて原作と照らし合わせてテキストをチェックしたりしています。
例えば、原作で“スチールのたわしで鍋の底を磨いた”と記されてあるわけですが、これは新宿では動作としてもカットしていたんだけど、やはり重要なのでは? と思って、こないだ鍋を買いました。あと昨日の稽古では黒猫の存在について、なんかみんなで改めて話し合いましたね。黒猫だけが時空を超えて全てを見てきたのではないか、みたいな。まあ、とにかく、あらゆる可能性を見直しながら微調整をしているところです。
会場が小劇場(新宿)、海が見えるテラス(横浜)、そしてライブハウス(渋谷)とタイプが違うので、それによって見えてくるものも変わってくると思いますね。

「みえるわ」舞台写真
コロナ禍を経てのマームとジプシー、そして演劇界の今をどのように感じていますか。
コロナ禍ではたくさんの公演が中止となり、マームとジプシーも大きな負債を抱えました。コロナ禍でも数年間のスケジュールはもうすでにパンパンに埋まっていたので、その一つ一つが中止となった時にも自分達がその膨大な借金を背負うしかない状況が続いたんです。それでもなんとかマームとジプシーは演劇を続けることが出来たけれど、またこういう大きな出来事が起こった時に、その損失をカバーするような仕組みや体制が演劇界になければ、若い世代の演劇を作っている人たちはもちろん離れていってしまうしかないと思いますね。だって、現実的にできないですよね。せっかく面白いもの、よいものを作っていても。演劇なんかやりたがらないですよ。演劇は“食えない”どころか“やれない”ってはなしです。それをどうにか変えられないか、ということはずっと考えてしまうんですけどね。
そういう点でダメージは大きかったと言えるのですが、気づいたことも多くありましたね。その時期に、一度立ち止まれたことは大きかったのではないかと今は思えています。コロナ禍以前は、公演をすることが当たり前のようなっていた演劇の営みについて、一つ一つ振り返ることができたのがよかったです。
コロナ禍以降、物価高や人件費の高騰に伴って、チケット代が高くなっているのは事実です。ただ、それだけに面白いもの、よいものがますます求められている時代になってきているとも思います。せっかく高いチケット料金を払い、わざわざその時間を劇場で過ごすということを選択してくれている観客の眼差しに、それに見合う作品を作れる人だけが残っていくのではないか、と。これは、まあ、当たり前のはなしでもあって、コロナ禍以前だってそうだったとも同時に言えることなのですが、ますます、というはなしです。誰かの目に、耳に触れるものは、どういう価値観があったとしても、それに費やされた時間がよいものであるかどうかのラインは、コロナ禍以前・以後でどうしたって変わったと思う。
自分が作った作品がきちんと誰かに消費されているかどうかという意識も変わったような気がします。例えば、子ども向けの演劇を作るときに意識するのは、観にきてくれた子どもたちにどういう刺激を与えるのか。視覚、聴覚をどうやって、どういうタイミングでこちらからそちらに促すことができるのか、みたいなことなのだけど。それが上手く出来たかどうか、エンターテインメントとしてどう働きかけることができたかを、とても気にするんですよ。こんなに気にする自分じゃなかった気もするんですよね、コロナ禍以前は。子どもだけじゃなくて、観客のみなさんが、これ以上演劇や劇場から離れていってほしくないんですよ。自分の作家としての芸術性をどこまで高められるか、というのはもはやあんまり重要じゃなくて、観客がいなければなんにも始まらないというところに、コロナ禍を経て回帰したというか。

「cocoon」舞台写真
そんな意識の変化を経て、今は何を目指しているのでしょうか。
10歳から演劇を始めて、本当に演劇しかない人生ですね。だから何を考えるにしても、全て演劇に繋がっていくんですよね。自分の演劇に必要なことだけを、生活をしていても常に探しているというか。料理をするんですが、料理していてもまな板が舞台面に見えるとか、お皿にどう配置するかとか、あとは手順の一つ一つの段取りをブラッシュアップしたくなったり、全部演劇的に、あるいは演出的な観点で台所にも立ってしまっている自分に気づくんです。発見とかも嬉しいんだけど、味がよくなったとかそれ自体が嬉しいのではなくて、この準備と準備の位置を交換したから、結果的によくなった、みたいなところに喜びを感じる。演劇的に、演出的にしか、なにもかも感動できないんですよね。演劇の面白さって、観客の目に触れる表出されたものだけではなくて、そこまでのプロセスとか、自分がチームをどう組織して、どういう環境を作ったか、という匙加減で全然作品のテイストが違ってきたりするので、そしてそれが演劇の醍醐味なので、ずっとそういうことをそういう観点で常に考えています。
常に今の演劇を考えている藤田さんが今気になる事柄とは。
20代の時に初めてイタリアのフィレンツェにて海外公演しましたが、今は円安の影響もあってか、あの頃のようにヨーロッパで公演するとかも難しくなっているのだとは思います。ただ、でもいつも海外で公演をするには、どう舞台を設計していくか、デザインするかというのは念頭にあって、その思考を巡らすのがずっと楽しいですね。どういうパッケージで、ツアーに行けるか、みたいな。最近考えているのは、ダンボールのことなんですよね。ダンボールですごい造形物を作ることができたら、どんな場所でも作品を発表できるんじゃないか、って。本当にすごいかっこいい家とか(笑)。昨今は海外公演の場合、荷物(道具や舞台美術、衣装)やキャストすら人数が少ない方がいいと言われるのだけど、それに対して文句を言いつつも、どういうふうに自分の演劇の体積を減らすことができるか、なんだったら減らせるのか、というのを考えるのも、別のアイディアに繋がるきっかけだとも捉えているんです。持ち運びが簡単なテントだけが舞台美術の作品がレパートリーにあるのだけど、あれを越えるのだとしたら、ダンボール意外といけるのかもしれない、とか。
今作の「ウィステリアと三人の女たち」の影響もあると思うのですが、“家”という建築物、あるいは“家という体内“ということを考えていた時に、家のあらゆる場所を掃除する箒というものへの興味に辿り着きましたね。その種類の多さに驚いて、日本の箒について調べることが趣味みたいになっています。ものがたりが頭に浮かんで新作を作ろうというよりも、そういう具体的なヴィジュアルや動作(箒を舞台で、誰がどう所作するか)がイメージとして湧き出てきて制作が始まるんです。
あとお正月に実家に帰っていた時に、辞書をよく読んでいましたね。日本語の“夕”や“朝”がつく言葉の多彩さが面白いなと思って。海外で上演する際の(字幕)翻訳だったら、夕暮れと夕まぐれを同一言語“dusk”にしてしまって良いのか、とか。海外に自分の作品を持っていくとして、と考えるとどんどん新しいインスピレーションが浮かびます。どう工夫すれば良いかを考えるのが面白くて。

「cocoon」舞台写真

「ウィステリアと三人の女たち」舞台写真
「ウィステリアと三人の女たち」
2月19日(木)19:00、20日(金)14:00 / 18:00
会場:WWW (渋谷区宇田川町13-17 ライズビルB1F)
