
「桜の園」や「かもめ」などで知られるロシアの劇作家、小説家アントン・チェーホフが24歳の時に書いた「狩場の悲劇」、本邦初の舞台化。
2000年にチェーホフ四代悲劇の一つ「三人姉妹」を日本の地方都市にある旧家の話へと翻案した「萩家の三姉妹」で多くの演劇賞を獲得した永井愛により現代に生き返った知る人ぞ知るチェーホフの長編ミステリー小説の謎、作家の思いとは。傑作フェミニズム喜劇との呼び声が高い「萩家の三姉妹」に続くチェーホフ劇の女性たちの姿、そんな女性たちから思いをよせられるモテ男、主人公のセルゲイ・ペトローヴィチ・カムイシェフが抱える逡巡の理由について、翻案、脚色、演出の永井愛に話を聞いた。
4年ぶりの新作舞台にチェーホフの初期作品「狩場の悲劇」を選んだ理由は?
もちろん戯曲は素晴らしいのですが、チェーホフの短編小説も大好きで、いつか舞台化したいと思っていました。中でも「六号室」という精神病棟の話が好きで、劇化を考えたのですが、この暴力的で陰惨な話で全国巡演をするのはどうか、今回はやめておこうかと迷っていた時に、Amazonのお勧めで「狩場の悲劇」があがってきたのです。チェーホフが24歳で書いた恋愛ミステリーってどうなの、と読んでみたらこれが面白かった。生活費を稼ぐために書いたもので文学的価値はないという人もいるのですが、人物や風景の描写力に並々ならぬものがあり、後々のチェーホフを予見させる。決しておざなりに書いたものではないと感じました。
今は細かな描写が敬遠され、ストーリーがテンポよく進むことが求められているそうですね。人物の容姿や振る舞いの描写から想像をふくらませるよりも、とにかくストーリー展開を追う読み方が主流だとか。そういう意味では、細かい描写が続くこの作品は、今の流行の真逆をいくものかもしれません。
チェーホフは帝政末期の矛盾の極まった時代を生きましたが、彼の時代を見る眼は、今作のようなエンタメ系の小説にも息づいています。若い頃から、格差や女性の生き方の選択肢の少なさ、そして嘘や偽りがまかり通っていく世の様に関心があり、描き出さずにはいられなかったのでしょうね。
確かに、初期の作品ですが、そこには後期の戯曲に通じるものがありますね。
チェーホフは俗物を書く名人ですが、おそらく実生活で多くの俗物に翻弄されたのだと思います。偉い人ほど、社会的地位が高い人ほど俗物だというのがチェーホフの世界。治安判事、伯爵などが、どうしようもない俗物として登場します。それらの俗物には、おそらくモデルがいて、日頃の敵討ちをするように、ニヤニヤしながら書いていたのではないでしょうか。
インタビューで“最近の世界情勢を前にして、今の時代に自分は何を書くべきなのか悩んだ”とおっしゃっていました。
戯曲を書くときはいつも、自分を取り巻く世の中、それも日本だけでなく世界の状況を踏まえて書いているつもりでいました。私にとって一つのターニングポイントとなった「ザ・空気」シリーズ*を書いていた時は、その方向性に何の迷いもありませんでした。ですが、今「ザ・空気」を新作として発想できるかといったら疑問です。たとえば“メディアが忖度や自己規制を繰り返している”と書いたところで、もはや、多くの人がそれを知りながら、何も変えられないという現実の方がはるかに大きい。そんな今、何を書けば良いのか、果たして自分の書き方が今、有効なのかと思い悩んでしまったのです。
それで、こういう時は基本に戻ろうと、チェーホフに挑戦することにしたんです。それも「桜の園」のような有名作ではなく、「狩場の悲劇」となれば、“何それ面白そう”と思ってもらえるかな、と。
*日本のメディアと政治の世界の関係を描いたシリーズで2017年「ザ・空気」、2018年「ザ・空気 ver.2」、2021年「ザ・空気 ver.3」が上演され、シリーズを通してそれぞれが多くの演劇賞に輝いた。
「狩場の悲劇」を読んでみて、最初の印象はどうでしたか。
回収されない謎かけもあるのですが、小説内の小説という入れ子構造、さらに編集長(亀田佳明)が主人公セルゲイ(溝端淳平)の書いた小説に、「注釈」という形でたびたびツッコミを入れてくる趣向は斬新で面白いなと思いました。そうした点から見れば、原作は推理小説のパロディと言えるのかもしれません。そこに「そこらの推理小説とは違うぞ」という、若いチェーホフの意気込みを感じました。
チェーホフの生きた時代は、力による領土の侵略が当たり前に行われていました。昨今の世界情勢を見ていると、そんな力の支配の時代に戻ろうとしているかのように感じます。私たちは歴史から、それがいかに非人間的な誤りであったかを学んだはずなのに、言論統制の兆しさえ見え始めたこの状況に、民主主義の洗礼を受けてきた私たちがどこまで抗えるのかと思わずにはいられません。

オーレニカ(ダブルキャスト 原田樹里・川添野愛)とナージェニカ(大西礼芳)、二人の女性に関してはどう思われますか。
それぞれに取った行動は違うのですが、あの時代の女性の「つまずき方」の典型的な二つのパターンが示されていると思います。
オーレニカという女性は、実に興味深い人です。物語のわずか3ヶ月の間に、彼女はまるで別人のように変化していきます。帝政末期という混沌とした時代の価値観を、まっすぐに、無防備なほど吸い込んでしまう。その変化の果てに見えてくるのは、愛と現実の間で激しく揺れながら、次第に自分を見失っていく、痛ましい女性の姿です。
ナージェニカは、教育を受けた理性的な女性でありながら、どこかで非合理な選択をしてしまう。愛と依存、理想と打算、その狭間で自分の生き方を探ろうとする姿が、彼女を魅力的で、同時に滑稽な存在にしています。
現代で言えば、たとえば歌舞伎町のシャンパンタワーの世界も、私たちの時代の価値観と無関係ではありません。お金と力がその場を支配するという、その意味では、100年以上の時を経ても変わっていないと言えますね。
そんな女性たちが頼った男性たちについて、例えば主人公のセルゲイについてはどう思いますか。
セルゲイは、奔放で享楽的な人物として描かれていますが、その奥にはどこか繊細で傷つきやすい部分も感じます。彼がオーレニカに惹かれたのは、単なる欲望ではなく、かつての自分の中にあった“何か清らかなもの”を彼女の中に見たからではないでしょうか。その理想が壊れていく過程で、彼自身の心の傷があらわになっていくように思います。
先行するロシア文学では、プーシキンの小説「エヴゲーニイ・オネーギン」のオネーギン、そのプーシキンを尊敬していた詩人のレールモントフ*(戯曲の中にレールモントフの詩を引用しました)の小説「現代の英雄」のペチョーリンといった、遊び人で女たらしの主人公が出てきます。そうした人物像の背景には、時代状況が深く関わっているようです。
当時のロシアの知識階級の青年たちは、大学でフランスの自由主義思想に触れ、“市民”という概念に驚きました。一方で、ロシアでは依然として皇帝が支配し、農奴の多くは読み書きもできない。そのことがロシアの国力を下げていると考えた青年貴族らは、農奴を解放し、自由主義的な政府の実現を目指して、デカブリストの乱**を起こしました。反乱はすぐに鎮圧されましたが、改革の夢を失った知識人たちが、冷笑的になって遊び暮らすという、そんな青年像がロシア文学には出てきます。オネーギンやペチョーリン、おそらくこのセルゲイもそんな青年たちの一人であって、根っからの遊び人というよりは、ある種の屈折を内包した人物なのではないかと思います。
日本でも70年代の学園紛争の後に“シラケ世代”が生まれたように、世界的にも大きな運動の後には、そうした反動が起こるのでしょうね。
あと、原作には、オーレニカの父である森番ニコライ(石井愃一)の小屋の本棚に、レールモントフの全集や急進的な雑誌があるという記述があり、その娘オーレニカが詩人チュッチェフ***の詩を口ずさんでいると書かれているところから、私自身がさらに想像を巡らせた部分もあります。ニコライについては、単なる風変わりな老人ではなく、深い傷を抱えた人物として描きたいと考えました。今もロシアはクリミアの実効支配をめぐって、各国と緊張関係にありますが、彼の背景にクリミア戦争(1853~1856年)を絡ませることで、歴史の影を背負わせたいと考えたのです。
*ミハエル・レールモントフ 帝政ロシアの詩人、作家。
**デカプリストの乱 1825年にロシア帝国で起きた自由主義を求める青年将校たちの反乱。
***フョドール・チュッチェフ ロシアの詩人、外交官。

チェーホフの小説を舞台にしたことで、そこに何が生まれたと思いますか。
どれだけの人が、これがチェーホフの書いたものだと信じてくれるでしょうか(笑)。ストーリーは原作にほぼ忠実ですが、人物造形などは少し補足を加えています。また、編集長が常に舞台上に居るという設定は、小説内小説に入る編集長の「註」から発想しました。ラストの展開は、原作にはないアイデアですが、そういう、時代を超えたチェーホフとのコラボレーションも楽しんでいただけるのではないかと思っています。

(c) Nobuko Tanaka
「狩場の悲劇」
11月19日まで
会場:紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA
その後、1月17日まで全国ツアー公演
山形、滋賀、長野、石川、福岡、愛知、香川、岡山、兵庫、宮城、茨城、岩手、埼玉
詳細:http://www.nitosha.net
