岡田利規がダンスで示すナラティヴとの関わり

(c) Nobuko Tanaka

「さいたまダンス・ラボラトリVol.3公演『明日を探る身体』」4つのプログラムのうちの1つ、ワーク・イン・プログレス(制作途上)の作品として2021年3月に上演された『わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド』。ヨーロッパをはじめとして、世界で活躍するダンサー、振付家、さいたまダンス・ラボラトリでは講師/ナビゲーターも務める湯浅永麻(えま)が岡田利規作のテキストを喋り続けながら踊る30分弱のソロ作品が披露された。

前回の湯浅のソロを第一部として、今回はもう一人の演者、俳優の太田信吾を迎え、三部作に発展させた完成版が9月1〜4日にかけて全6回、彩の国さいたま芸術劇場で上演される。

国内にとどまらず、世界をまたにかけて常に観客を刺激する演劇作品を発表し続ける演劇作家・小説家でチェルフィッチュ主宰の岡田利規に完成版について、そして自身の中での演劇とダンスの関わりについて話を聞いた。

*ちなみに、タイトルにあるナラティヴとは「人の思考を規定するための物語」という意味合いで、世の中を言葉により定義するもの、その人の価値観を決めていくようなものとして用いられている。

 

(c) 大洞博靖 Hiroyasu Daido

(c) 大洞博靖 Hiroyasu Daido

— リハーサル風景

 

「オペラを演出した時(2021年に『夕鶴』でオペラ初演出)は、今までやったことのないことだと感じましたが、ダンスに関してはそうは思っていません。このダンス上演は今までの延長にあるものですね」と話す作家・演出家は今作では共同振付家(舞台で演じる湯浅と太田とともに)としても名を連ねている。

一般的に振付家の仕事では、踊りや動きの振りを考え踊り手にそれを指導することを指すが、演劇の演出家である岡田はその振付にどのように関わっているのだろうか。

「基本的に僕は「言葉によって振り付け」ています。言葉というのは台本のテキストの言葉という意味が主で、リハーサルの中で話す言葉もその一部です。それぞれの身体に言葉を介入させると、言葉の前提となっているイメージや発話する行為に付随した身体の動きが現れてきます。つまり、言葉の介入を受けた結果が身体の動きに出てくるんです。それを僕は「振付」と呼んでいます。」

そもそも「いわゆるダンサーのみならず、普通の人の身体表現もパフォーミングアーツの身体として観るに値する」と常に感じていたと言う岡田。

確かに、チェルフィッチュが人々の関心を集め始めた当時、俳優たちのダラダラした動き=俳優の身体表現というのが大いに注目を集めているし、さらに言えば、2005年作・演出の小作品『クーラー』が振付家という名目でトヨタ コレオグラフィ―アワードに選出された実績もある。

舞台での身体の動きについて「身体化されただけの台本の言葉」、つまり戯曲に書かれていることを我々が思い描く具体的な仕草で演じたものを舞台上にあげることには興味がない、と彼は断言する。

「なぜなら、それはすでに言葉として台本に書かれてあり、それが発話されているだけで充分だと思うんです。台本を読めば良いですから。代わりに舞台では身体化されたその人のイマジネーションを僕は見たい。」

「僕の作品では、テキストと身体の関係がとても重要です。テキストと身体のコネクションが見えてしまうと面白くないので「身体をテキストに支配されないように」と演者には強く言います。とにかく「テキストではなく、その時に持っているイマジネーションとコネクトしてください」と。リハーサルではその基となるイマジネーションを一緒に作っていく作業をしています。」

 

(c) 大洞博靖 Hiroyasu Daido

(c) 大洞博靖 Hiroyasu Daido

— リハーサルでの湯浅と太田

 

現場ではイマジネーションを喚起するため、テキストを繰り返し読んでいると言う。

「最終的にパフォーマンスをテキストと繋がりを持ったものにしないために、テキストを読んでいます。読むことによってイマジネーションの土台を作るためです。もしその土台がないとしたら、言葉(テキスト)の上に立つしかなくなるわけですが、そうなるとつまらない。

例えば、途中で立ってみて、その強度、柔軟性を計り、まだ足りないと感じたら、また戻って土台作りを繰り返し、そうして動きを作っていきます。土台に立つことが出来たら、自ずと動きは出てくると言うことです。」

 

(c) 大洞博靖 Hiroyasu Daido

— リハーサルでの岡田

 

第一部では湯浅が演じる女性がSNSでフォローしている”先生”の「身体の声を聴く」という言葉に翻弄され、どんどん深みにはまっていく様が描かれていた。今回加わった第二部、第三部では、彼女の目の前に現れた人物(太田)による異なる複数の「ナラティヴ」が新たに提示される。ひとつの「ナラティヴ」が、時に異なった「ナラティヴ」を持つ者同士の分断を呼び、また新しい「ナラティヴ」が人の考えを翻弄していく様を描いている完成版について、作家はわたしたち自身の日常で生じている問題であり、それがこの作品のコンセプトでタイトルにもなっている「わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド」だと話す。

 

(c) 大洞博靖 Hiroyasu Daido

 

— 2021年「わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド」舞台写真 湯浅永麻

「まず、この作品で問題にしているナラティヴはSNSだけと結び付いているのではありません。そして、人はなんらかのナラティヴにどうしても影響を受けてしまうということです。

人間の想像力というものを、どうやって自分のナラティヴの下に置くかに関して、ものすごく激しい争い(バトル)、つまり「私をめぐる争い」が起こっている。例えば広告などもそうで、あらゆるもの(ナラティヴ)が私を手に入れようとしているという状況が起こっているわけです。ナラティヴによる混迷は我々が置かれている基本的な状況の問題だと思います。

ナラティヴに「洗脳される」と言うと、イメージとしては抽象的だけれど、その本質を変えずに言い替えれば「振り付けられる」という言い方をすることが出来る。そしてそれが可能であれば、ダンス作品にすることが出来るということです。」

ダンスの持つ「意味」から解き放たれたその自由な表現に嫉妬さえ持っていたと話す岡田はダンス、演劇などのジャンルに関係なく舞台芸術が目指すところ、つまり今回の上演について、観客にこう呼びかける。

「舞台芸術作品に関しては作品がどう文脈化されるか、観客とどう繋がるか、が重要だと思っています。観客一人一人ともですが、同時に社会と繋がること、それが文脈化されるということだと思っています。自分と関係があるものという感覚を持ってもらうことが重要です。」

初めてのコラボレーションでありながら、早い段階からコンセプトを共有することで岡田との有意義なクリエーションの時間を過ごしているという湯浅永麻と、2010年以降、度々岡田と一緒に作品作りをしてきた俳優で映画監督の太田信吾。完成版での太田の参加について岡田は「そもそも、全然違うもの(演者2人)が置いてあるだけでそれだけでもう面白いじゃないですか」と手応え十分とばかりに笑みをこぼす。

彼ら3人の共同振付により現れてくる“今の私たちのありよう”を映したダンスの幕がもうすぐあがる。

 

(c) Nobuko Tanaka

テキスト・演出:岡田利規

「わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド」

詳細はこちら: https://www.saf.or.jp/arthall/stages/detail/94292/

2022年9月1日〜4日 彩の国さいたま芸術劇場小ホール

テキスト・演出:岡田利規

共同振付:岡田利規、湯浅永麻、太田信吾

出演:湯浅永麻、太田信吾

主催・企画・制作:彩の国さいたま芸術劇場(公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団)

助成:Dance Reflections by Van Cleef & Arpels

文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業)

独立行政法人日本芸術文化振興会

 

 

 

 

 

 

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