杉原邦生に聞く さいたまゴールドシアターとの日々

(c) Nobuko Tanaka

2006年に故蜷川幸雄の旗振りの元、スタートしたさいたまゴールドシアター。55歳以上という応募条件に手を上げた応募者は1200名を超えた。蜷川氏が直接あたったオーディションで最終的に選ばれた48名のゴールドシアターの役者たちは、高齢者の新しいチャレンジということで社会現象を巻き起こし、その後も毎年の舞台をこなしていく。国内だけでなく海外進出も果たしたゴールドシアターだが、メンバーのさらなる高齢化もあり、主催者の彩の国さいたま芸術劇場からは、この12月の舞台、太田省吾の沈黙劇「水の駅」での解散が発表された。

この「水の駅」の演出をまかされた杉原邦生にゴールドシアターとの創作について、また世界中で多くのファンを獲得したゴールドシアターの魅力について話を聞いた。

Kunio Sugihara
(c) Nobuko Tanaka

Q: まず、ゴールドのメンバーの印象を教えてください。

杉原:僕は2014年と18年に京都芸術劇場の春秋座で、シニアの60歳以上の一般公募の人3~40人と一緒に作品を作っていまして、なので高齢者の集団には演出家として態勢がある方なんです。ただ、ゴールドのみなさんの場合は、蜷川幸雄さんという演出家の下で15~6年間しっかりと俳優として活動してきたという下地が、経歴がある方達なのでまたちょっと違いますね。一方で、実際に彼らを舞台で見ていると、ただの俳優の体じゃないっていうか、一般の人と俳優との合間と言うか、そういう身体、独特の存在感を持っている。そこに興味があったし なんか面白いなと思っていました。

今回、いろいろな人から大変だよとか、振り回されるよとか聞いていたんですけど、大変だなって思ったことはないですね、今のところ。もちろん色々ありますが、それはどんな現場でもあることなので。僕は演出家というのは俳優それぞれに合わせて言い方を変えたり、アプローチを変えたり、言うタイミングを変えたりして、全部をそうやって本番から逆算していって考えていくのが仕事だと思っています。そういった意味では普段の作業と全く変わらないし、そこにやりにくさとかはないですね。舞台を見ていると 「鴉や!」と、大声で叫んだりして結構強烈な印象、ちょっと高齢者ヤンキー軍団みたいな印象もありますが、実際会ってみると、皆さんチャーミングですごく素直です。もちろん素直だからこそ余計なことまでポンって言っちゃったりするんですけどね。(笑)それはつまり、裏表がないと言うことなのでやり易いです。色々と本音を探らなくて良いので、そういうストレスが無いです。

Q: 最近のインタビューでゴールドとの稽古は「疲れるけど楽しい」と仰っていましたが、その意味とは?

杉原:彼らが素直にぶつかってくる分、こちらも素直にぶつからないといけないと言うか、本気と本気のぶつかり合いじゃないですが。なので、稽古中は楽しいですけれど終わってみると疲れたみたいな感じですかね。あと単純な問題として、耳が遠い方がいらっしゃるから結構大きい声でしゃべり続けたりしているので、単純に体力を使います。

Q: ゴールドの功績について、どう思っていますか?

杉原:団体としてはやはり唯一無二だと思います。世界的に見ても、もちろん日本の中で見ても、こんな劇団は他に無いです。元々は蜷川幸雄さんの下で始まり、それを公共劇場の枠組みの中でやっているっていうのが本当に他では無いことだから、そういう意味で、劇団の存在感としてもすごく独特だと思います。やはり蜷川さんが選んだ皆さんの個性も強いですから、なんかもう妖怪たちがいっぱいいるみたいですよね、すごく良い意味で、ですよ。彼らを一回見たら忘れられなくなりますよ、それはね。

演劇界に与えた影響も大きいと思うけど、やはり社会に与えた影響というのが大きいと思っています。蜷川さんは自分の作品や自分の活動が、社会に対してどういう意味や意見を持っているかということを常に考えていましたし、演劇が常にどうやって社会と繋がっているのかということをずっと考えながら作品を作っていらっしゃったのだと思っています。そういう意味で、ゴールドという劇団を作り、彼らと作品を作っていくということが蜷川さんなりの、そしてさいたま芸術劇場なりの、今の社会に対するある意義がきちんとあって、それを持ちながら続けてきたということがすごく大きいと思いますね。それゆえに彼らが やっていることはしっかりと周りに影響を与えていくのでしょう。私も何かやってみようと思う人がいるかもしれないし、若い人からしたら、ここまで長く生きて、好きなことをやっても良いんだという希望になるかもしれないし。希望とか可能性とかを広げる存在だなと思うので、それは演劇界的にも、社会的な意味でもすごく影響があると思います。彼らが存在する意味はとてもあるという気がします。

Q: 「水の駅」の作者、太田省吾さん、そして蜷川さんの世代の演劇人は社会との関わりを模索し、また実験的な演劇を積極的に取り入れていましたよね。

杉原:あの世代の人たちは、どうやって新しいことをやって、芸術、演劇が社会にインパクトを与え続けられるか、ということを考えていらっしゃったのだと思います。それは太田さんに僕が常に言われていたことです。演劇というのは常に社会に開いていなければならない、つまり舞台で表現することは社会に対して表現したいことだ、と言われ続けてきました。僕も実際、そういう意味で演劇というものをやりたいと思っています。自分が新しいと思えることをやり続けていないと、観客は絶対についてこないでしょう。演劇の場では何か新しいものが、何か面白い表現が見られるというように期待させていかないと、演劇なんて見る人がいなくなっちゃう。YouTube見た方が楽しい、となっちゃう。だから演劇でしか出来ないことをどうやって更新していくのかというのが課題となってきます。僕は自分で戯曲を書かないので、既存の上演からどういう風に新しい表現を生み出していくかとか、既存の表現を尊重しながらどうやって今の社会にそれを提示していくのか、みたいなことを常に考えています。

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Q: 今回のこのゴールドの「水の駅」ではどういうことを目指しているのですか?

杉原:最初は「水の駅」をゴールドシアターで、という話で、これが最終公演になるというのは後から決まったことなんです。最終公演となったとき、自分で良いのかなって思ったりしました。つまり僕は蜷川さんとの関わりも全くない、ただのファンだから。話したこともなければ演出助手としてついこともない、現場に居たこともないし、最終公演をやる演出家は僕以外にもっとふさわしい人がいるのでは、と。でも、ゴールドの発足時に蜷川さんが「身体表現によって新しい自分に出会う場だ」ということをおっしゃっていたのを思い出して、沈黙劇って身体表現の極地だよな、と考えたんです。さらに、きっとゴールドの解散を 新しい1歩だって考えているのかな、とも思いました。今までの演出家から選ぶのではなくて、あえて新しい演出家を入れることによって、彼らの活動の未来とか演劇の未来とか、そういうことに光をあてていくという企画意図があったかどうかは知りませんが、そういうことなら僕がやる理由はあるかな、と思ったんです。

Q: 先ほどメンバー2人に話を聞いたら、新しいことにチャレンジさせてもらっています、と嬉しそうでした。

杉原:それはとても良い事だと思いますね。今回の舞台で新しい光というか、希望が見えたら良いなと思うんです。

今回は沈黙劇というとても独特なスタイルですけれど、、、言葉が今、変な力を持ちだしているというか、誰が発したかもわからないデジタルな言葉が人を殺していく、そうやって言葉というものの力が変容してきていて、本来の力ではない力を持ち始めている時に、言葉を使わない表現をすることによって、本来の人間同士のコミュニケーションとか体と体のぶつかり合いとか、その美しさ、醜さ、面倒くささ、そういうものを舞台上で表現できるのではないかなと思っています。そういう意味でも、沈黙劇というスタイルで「水の駅」をやるというのは、社会にとって意義のあることじゃないかな、と思います。本当に本当のことを言っているのか、って多くの人が思っているじゃないですか。言葉への疑いが溢れているからこそ、一回言葉をなくしてみよう、ということなのかもしれないです。

Q: 2年前に若い俳優さんで「水の駅」を上演していますが、今回はそれとは何か違うことはありますか。

杉原:この作品は人々がどこからともなく水場にやってきて、水に触れて戯れて去っていくというだけのプロットですけれど、結局そこに出てくる登場人物たちのどこかに、自分の中にも「乾き」というものを持っていて、そういうものを抱えた人たちがあの水場にやってきて、水に触れることによって何か変化、または満たされていく、そういう芝居だと思っています。若い、僕と同世代の俳優でやった時は、—まあ誰でも何らかの乾きはあるので、世代には関係ないと思うんですけど—なんとなく僕が共感できるもの、共有できる乾きが多かったと思いますが、ゴールドの場合はそこに年輪と言うか歴史が見えてくるということがあって、それが違いますね。例えば夫婦のシーンがあったとして、その2人が何か心で交われないことについて渇きをおぼえているとすると、僕の年代の役者がやると数年間の乾きしか見えないけれど、彼らがやると数十年の渇きが見えてくるんです。どっちが良い悪いじゃなくて、そういう違いは大きくあります。あとメンバーが女性が多いので、男女のカップルが3組ぐらい出てくるんですけれど、配役の関係でそれを変えていて、最後の男と女というシーンは女と女、女性同士のカップルにしていて、いわゆるジェンダー的な表現にしています。僕が伝えているイメージとしては、その女性同士のカップルが自分たち2人の中では確実に「あなたしかいない」というピースがはまっているのに、その2人揃ったピースがはまれる社会の場所がない。常にマイノリティーとして扱われてきていて、その場所を探している人たちという話にしているんです。それをやるときに、僕らの世代だと、女と女のカップルは結構普通でしょう、と見えるかもしれない。けれど、ゴールドの年齢であるとそこにある日本とか世界のマイノリティー対する歴史というか、そういうものがふわって見える瞬間とかがあるので、そういう意味で違う感じがします。

あと、殴る夫と叫ぶ女っていう役があるんですが、そこもまあ単純に男性が少ないというのもあるのですが、殴る娘と叫ぶ母にしています。ちょっと老老介護みたいに見えるように、連れてきて泣き止まないお母さん、多分アルツハイマーで泣き止まないお母さんを殴ってしまう、としていて、そういうことができるのは彼らの世代だからこそだし、そういう実感を伴った表現になっているので、稽古を見ているだけでも胸が詰まるというか、そういう感じはあるので、きっとこれからちゃんと稽古を重ねていったらさらに良い表現になっていくのではないかな、と感じています。

Q: 沈黙劇だからこそ稽古場で演出家が俳優にかける言葉は雄弁になるのかな、と思うのですが、いかがですか。

杉原:いや雄弁にしない方が良い、と僕は思います。なのでピースだけを渡しています。間を埋めるのは俳優の仕事だから。僕は聞かれたら言うけれど、僕もすべて答えを持っているわけではないので。演出が全部答えを持っている劇なんてつまらないですよ、イギリスの芝居みたいな(笑)。もちろんぼくなりのイメージもあるので、それは伝えますが、全部伝えてしまったら、そんなつまらない芝居はないですから、僕はピースをひとまず渡して、、、僕は決めつけないです。決めつけたら俳優が考える余地を奪うことになると思うので、こういうのはどうですか、と提案します。そういう幅を狭めないように気をつけながら言葉をかけているという段階です。

Q: 高齢者劇団ゴールドの最終公演になってしまいましたが、それを含めての今後の演劇の可能性についてはどう考えていますか。

杉原:難しいですね、どうだろう。僕自身はキャリアとしても異色だと思うんですよね。歌舞伎もやっている、古典もやっている、現代劇もやっている、みたいな。いろいろな関わり方をすることで、僕自身が仕事の可能性を広げていくことで、演劇の可能性を広げることに繋がっていくような活動ができたら良いな、と思っています。僕は蜷川さんの演出家としての姿勢というのをすごく尊敬していて、いろいろなことを言う人がいるかもしれないけれど、あれだけの本数を、あれだけのプロダクションとか規模で動かし続けて、年十本とか、それは誰がどう見たって評価すべきことだと思うので。蜷川さん次は何をやるんだろうと思わせてくれて、演劇界も、お客さんのこともワクワクさせ続けてきたので、、、僕は蜷川さんとは違うキャリアだし違う形で演出をやっているし、演出家としてのスタイルも違うと思うけれど、そうやって演出家が演劇界やお客さんを常にワクワクさせ続けるような存在であるのってすごく豊かだなと思います。演劇にどっぷり浸かっている人がそういう現象を起こし続けるということは、演劇界にとって豊かというか理想だと思うので、いつの日かそういう存在になれたら良いなと思いますし、さらに言えば、どうやって演劇が常に注目されるような土壌を作れば良いのかなと思います。

あと、客席が色々な年齢、客層で入り混じっているのがすごく好きなんです。どうしたって人って似た人同士で固まってしまうものなので。もちろんコミュニケーションをとるわけではないですし、喋ったりするわけではないけれど、いろいろな世代の人たちが一緒の空間にいて、芝居からいろいろなことを感じとって共有するって素晴らしいことだと思います。蜷川さんの芝居がそうですしたよね、蜷川さんの芝居を見続けている蜷川世代の人たちもいるし、藤原竜也ファンもいる、そういう入り混じっている感じが良いので、そういうものが出来たら良いなと思いますけど。

Q: 今回 のキャスティングはどうやって決めたのですか?

杉原:一斉稽古っていうのが10月の半ばにあってそれを見てということですが、まあ身体能力も含めてですけれど、結局僕の最終的な勘ですねやっぱり。演出家って最終極限は人を見る仕事ですから。人を見て、その人の良い魅力をどうやって舞台上で引き出すかっていう仕事だから、ずっと人を見ているんですよ。この人はこういうことを考えているのかな、ということを常に考えてキャッチしながら、、最終的には役者のキャラクターと身体能力を見て、パズルですね。決めるときには一気に決まりましたよ。悩んだのは一、二個で。あと、体調的に出るか出ないかわからない人たちがいるので、その辺はちょっと調整しましたけど。あと1人井上ひまわりという若い役者がゲストとして入っているのですが、その子を最初少女にしようかなって考えたんですけれど、それも変えて逆に老婆という役にしました。少女はゴールドのメンバーにやってもらって、1人若い子を戯曲上では老婆という役にしました。

Q: そのキャステイングの意図はどこにあるのですか。

杉原:老婆って「水の駅」の中で唯一、そこで命を落とす役なんですよ。老衰して死んでいくんです。ゴールドのメンバーが老婆役ということで、一旦やってみたのですが、すごく引っかかってしまって。なんでこの人だけ、この中で死んじゃうのだろう。みんな高齢者なのに、どうしてこの老婆役の人だけ死んでしまうのだろう、と。そこでふと、ニュースで女性の自殺が去年から今年にかけて、4割増えたと言っているのを耳にしたんです。今までは男性がダントツで自殺が多かった、今でも女性の2倍ぐらいは男性らしいですけれど。一方で女性が増えていると聞いて、若い世代がすごく生きづらくなっている世の中なんだな、と思いました。夢が持てない、希望が持てないとよく言うけれど、その高齢者の集団の中で1人若い人だけが命を絶って死んでいく、、、未来もない、未来を持てないから死んでいくっていう。さらにそこにいた老人たちが弔って投棄物の山に死体を置いていくというのがすごく現代的だなと思ってそのようにしました。そのシーンを稽古でも見ていると、こういう人にも演劇って希望を与えられるのだろうか、ということを考えてしまいます。若者が一人その場で死んで、投棄物の山に埋葬されていくということが、年の違う彼らが居ることによって違った意味に見えた方が面白いし、もっと意味のあるものに見えた方が良いなと思いました。高齢者の仲間を1人葬るのではなくて、彼らたち(高齢者)のところまでたどり着けなかった若い子を葬るという芝居にしました。

Saitama Gold Theatre group photo
(c) 宮川舞子