Auditorium and empty stage

劇場のあり方についての考え方を変える時なのか?

The Stageより抜粋 written by Lyn Gardner

Enjoying entertainment with friends
(c) Matthew Henry / Burst

ピーター・ブルックは彼の著書「何もない空間 Empty Space」の中で「誰かが観ている中、どのように何もない空間を横切るのか」それこそが演劇が関わる全てであると記している。その空間とはもちろんどこでも良いということになる。浜辺でも街の広場でも、公園、村の集会所、デジタル空間、もちろん劇場でも。

一方で過去400年間、主に劇場のドアが人々(アーティストを含め)を締め出し、また受け入れる役目を果たしてきたのも事実だ。theatreという言葉は、そのコンテンツである「演劇」とそれを上演する建物の「劇場」という2つの意味がある。これまでの助成システムではその一つである「劇場」そのものがその恩恵を受けることが圧倒的に多かった。劇場だが、その多くがもともと演劇上演のために建てられたものが多く、我々はその建物の修繕・保存のために多額の資金を投じてきた。

劇場は創造を産み出す源であり、コミュニティーの中心にあり、感動、救い、そして安らぎを得る場所であることから劇場という財産を守ることは大切である。しかし一方で、劇場が存続し続けることに固執したり、トップダウンのヒエラルキーが存在しがちな中、身近なところだけを充実させることで自己満足し、地元のネットワーク、未知のアーティスト、普段やり慣れない実験的な試みから遠ざかってしまうことも多々起こっている。劇場の施設を管理するには多額の資金が必要で、それらの資金は作品自体、もしくはアーティストというよりも事務スタッフの給料、トイレの修繕などに使われることとなるのだ。劇場(建物)はフリーランスの働き手たちにとって重要な雇い主となっているわけだが、一方で演者や参加団体の賃金を使っているという側面もある。ダービーシアターのSarah Brighamは「誰が給料を支払われていて、誰が支払われていないのか、アーティストたちは劇場のどこに居場所があるのかが大きな懸案材料となっています。今は多くの運営事務スタッフが芸術を支えているのが現状ですが、一方でアーティストたちになんの保証もしなくて良いのでしょうか?」と話す。

コロナ後、フリーランス労働者たちがこれまでのように今後の勉強のため、また彼らを非正規雇用としている不公平な劇場の助成金使用用途のため、低賃金で保証のない仕事を請け負うとは思えない。

我々には皆が集まる場所が必要なのだが、公共の場所がどんどんプライベート化している時には、公的資金援助を受けている劇場(全ての納税者の為に納税者の税金から援助を受けている劇場)にとって状況が厳しくなる。おそらく今こそが再考するときなのだろう。

今回のパンデミックが、劇場が機能しなくなった時、多くの人が閉じた空間に集まることが出来なくなった時には劇場に頼りすぎる演劇文化では危機に陥ることを示してくれた。劇場(建物)の為に多額の資金が注入された政府の文化再生ファンドは棚上げとなったが、そもそもなんで21世紀の現在にはフィットしないかもしれないもの(劇場)を残そうとするのか?それよりも、COVIDが終焉した新しい世界で観客、アーティスト、そしてコミュニティーが真に必要としているものになぜ資金提供しようとしないのか。

我々は場所という物—それが実際の場所なのかデジタル上の場所なのか—を考え直す必要があるようだ。過去10ヶ月の間に試されたデジタル演劇によって、どのように演劇を届けるのか、またその形態についての考え方に変化が出てきた。それによってこれまで演劇を観劇する場所としての劇場という建物の独占状態に変化が現れ、長い間信じられてきた演劇への関わり方、演劇の発信方法、コンテンツにも変化が起こるかもしれない。これまで入場者をチェックするドアマンを雇ってきたアーティストたち、また多くの役者を動員した舞台を創作する資金のない人たちは、オンラインツールを駆使して様々な認可を得る事や多額の資金を投入することなく彼らの演劇創作を試すことができることを発見したのだ。これまで場所に関心を注いでいたのと同じように彼らはデジタルに関心を寄せている。このようなことに社会は今後さらに注目していくことになるであろうし、人がいなくなり空き家となったオフィスや店舗の増加や労働形態の変化などが起こってくるのだろう。劇場が今後も創造の場でありアーティストの仕事場として存続するということに疑問を挟む余地はないが、劇場文化、そして助成システムにシフト(変化)が起きることはそう悪いことではない。我々がtheatreと言った時にそれはすぐに劇場(建物)を意味するようにはならないということが今起こりつつあるのだ。